永遠の名曲二曲

むかし、こんなことを書きました・・・・・。

夜桜挽花さま、皆さまこんにちは。
お盆を如何お過ごしでしょうか、私は日中から亜矢歌三昧です。聞けば聞くほど上手い!!そんな、
感想を少し。

「感謝状~母へのメッセージ~」が素晴しいと感じます。
作詞:星野哲郎 作曲:弦 哲也、1997年5月発売ですからもう10年も前の曲になります。今
でも聞くたびに瑞々しい感動を覚えさせられています。

いつも優しく教え諭してくれ、甘えさせてくれたたお母さん、つらいとき、淋しいとき、優しく包み
込んでくれた母のことを思うとき、どんなに勇気づけられたことが多かったことだろう。
口に出して言えない母への恩愛を、情趣溢れる言葉で紡いだ名詩を感動的な調べに乗せて亜矢姫が切
々と唄いあげます。聴く者は自身の境涯にも照らして共感を覚え、ひととき純真な幸せの境地へと誘
われます。

星野先生は亜矢姫母娘を身近に見てこられましたから、このお二人のことを先生は詩人としての豊か
な感受性と優しいまなざしを通して作詞されたのではないかと私は感じます。
だから、この歌は亜矢姫母娘の人生そのものがテーマになっているに違いないと感じるのです。
思えば、お母さんとは15歳の時からずっと二人で一緒に暮らしてこられていますし、このお母さん
、保護者であることは勿論ですが、歌手生活においてはある意味ディレクターでありプロデューサー
でもあったと思います。亜矢姫の生い立ちを垣間見させていただく時、どうしてもこの念は間違いの
ないことと思えます。

メジャーになるまでのキャンペーン回り等の下積みの苦労は、本人はもちろんお母さんにも同様の事
があったと思いますし、すべては我が娘の夢を叶えてあげたいという一心不乱の気持ちが亜矢姫を支
えたと思うのです。また、亜矢姫の名作歌謡劇場シリーズ第一作は「瞼の母」セリフ入りなのですが
、これに繋がる経緯は、ある歌謡祭で姫に唄わせるのにセリフ入りは難しいからと言うプロデューサ
ー氏に、「勉強させるから唄わせてと下さい」とお母さんが頼み込んだことがきっかけになったとの
話も聞きました。
このことを考えると姫のライフワークとなっている「名作歌謡劇場シリーズ」はこのお母さんの一言
が原点になっていると思います。もちろん、シリーズ化されるのは姫の力量あってのことだと思いま
すが、しかし、この「瞼の母」の歌唱も素晴しいですねえ~。

芸能の世界は興行が伴いますし、素人には測り知れない苦労も色々あるのだと思いますが、対外的な
苦労をお母さんが一手に引き受けてくれているから、歌に専念できる。
お母さんあってこそ、こんな深い感謝の気持ちが迫真力となって聞く者に一層強い感動を与えてくれ
るのだと思います。この歌、親子の絆という普遍のテーマを題材としたものですが、姫の名唱と相ま
って‘永遠に残る名曲’の一つであると思うのです。

「帰らんちゃよか」も素晴しいと思います。
作詞:関島秀樹 作曲:関島秀樹 2004年5月発売ですが、楽曲自体は、生まれて10年以上に
もなるのではないでしょうか。
今度は、田舎暮らしの父親が、あの子毎日どうして暮らしているかしら、自分の夢に向ってうまくや
っていけているのかしらと、都会に出ている子に自身の寂しさを隠し、さらに虚勢をはって‘心配せ
んでよか’と切々と語りかける亜矢姫の感動名唱の一曲です。
この歌、いつも眼に一杯涙をためての歌唱に、ついつい引き込まれてしまうのですが、これ程にさせ
るのは歌唱力もさることながら、この歌を歌うときの姫の内に秘めた何かの思いも、こうさせている
のではないかと思えるのです。

亜矢姫の東京暮らしは14歳からといいますし、15歳からはお母さんも東京で一緒ですから、田舎
のお父さんと姉さんとはず~っと別居です。東京へ出ると決まったとき、お父さんは‘ただ泣いてば
かりで’と、姫はコンサートのMCで茶化して話されていましたが、父親というのはあまり細々とし
たことは言わないのが普通だと思います。
姫の心情からすれば、自分の夢の為にお母さんを独り占めし、お父さんや家族に申し訳ないという思
いが、常に心の中の葛藤としてあるのではないか、そのように思えるのです。
その姫の心やさしい思いと、どうにもならない自分の境遇を重ね合わせて唄われるから、聞くものの
情感をいやが上にも高まらせてしまうのだと思います。
そしてこの歌もまた、姫の名唱と相まって‘永遠に残る名曲’の一つであると思うのです。

そう言えば、'都'さんが一旦歌手を廃業した時期がありましたが、故郷に残したお父さんが原因の一
つとしてあったという話を何かの本で見たことがあります。姫にはこうなって欲しく無い。
お父さんやお姉さんには大変申し訳ないことなのですが、亜矢姫は‘世のため人のため’に唄いたい
という大義を持ってしまわれていますから、どうかお許し下さいとお願いするしかないですね。
狭い日本ですもの・・・・・。
勝手な事を言って申し訳ありません!!

以上、2006/8/14 「演歌桜・亜矢桜」に投稿

亜矢観音

むかし、こんなことを書きました・・・・・。

夜桜挽花さま、皆さま、こんにちは。
みずは様、「後世に残る歌」「心に残る歌」のお話、同感です。かつ、いつもいつも愛情のこもった
お話、嬉しく拝見しています。今後ともよろしくお願いいたします。

昨日、地元のカラオケ店へちょっと寄ってきましたが、老若男女問わず新曲ばかりを競って歌ってい
ます。私は歌えませんから聞くことに徹しましたが、今、歌われている歌は次の新曲が出ればすぐに
忘れ去られる運命、カラオケファンの間では新しいものを束の間だけ歌ってどんどん使い捨てていく
、これが今の世相だなあと、つくづく思いました。
こんな中でも、後世に残る歌、長く歌い続けられる歌があるのかしらと疑問に感じましたが、そんな
事はどうでもよいという世の中の大勢になっているのかも知れません。
家内は下手くそながら、とにかく「流れて津軽」と「相生」だけは歌ってきたところです。

それにしても、亜矢ちゃんの歌は良いなあ~と、・・・これ実感です。

先日の、みずは様のご報告では、好きな音楽を聴いたりすると性ホルモンの量が安定する効果がある
との研究結果を、福井さんとおっしゃる奈良教育大教授(音楽生理学)が発表されたとの話がありま
した。性ホルモンの減少は、認知機能の低下やアルツハイマー病の発病率が高まる要因とされている
そうですが、音楽を聴くことによる心理テストでは抑うつや不安が緩和していた。・・・というニュ
ースでした。これを考えますと皆さまが日頃、‘亜矢ビタミン’で元気をもらったと度々書いておら
れますが、これは科学的に証明されたことになりますね。みずは様さすがに情報が早いです。

私の知人のお母さんは93歳の高齢で、いま病院入っているのですが、一時容態が良くない時があり
ました。その時私がさし上げた亜矢姫のカセットテープを枕元で流したところ、目をつぶったまま手
拍子を打って歌の世界に入り込み、喜悦を示されたそうです。今は小康を得ておられるそうですが、
嬉しい話でした。
これとは別に、今年の春でしたが、ある会合で普段あまり歌を聞かないといわれる方に私製の亜矢姫
宣伝用のCDを差し上げました。この後しばらくごたごた続きで非常に精神的に落ち込んでいた時期
があったそうですが、亜矢姫の歌を聴くことによって元気づけられ或いは癒されて、苦しい時期を
乗り越えることが出来ましたと、つい先頃、篤く礼を言われました。

仏教では死後の世界に六道というのがあり、それぞれに名前の違う観音がおられて苦しみを救って下
さるそうです。地獄道には聖観音、餓鬼道には千手観音、畜生道には馬頭観音、修羅道には十一面観
音、人間道には准胝観音または不空羂索観音、天道には如意輪観音様、がいらっしゃる。
さて、現世においてはどなたがお救い下さるのでしょうか、そう、その観音さまは‘亜矢観音’さま
ではないかと思うのですが、如何でしょうか。

亜矢姫はその力強く透き通るような声で聴く人を精神の高みへ軽々と運んでくれたり、時には限りな
くやさしく語りかけるようなその唄で、天上に遊ばせてくれたりと、真剣に耳をかたむける衆生に例
外なくご利益を授けて下さる生き仏の'歌観音'様ではないかと思うのです。
しかし、残念な事には聴かない人にはご利益が届きません。今では、何処のコンサートでも昼夜満員
の盛況らしいですから、幸せいっぱいの方々も相当に多いと感じますが、さらに、ここに集う皆さま
は人助けと思って、こぞって、亜矢姫=‘亜矢観音’さまを信仰し、さらにさらに布教に努めようで
はありませんか。

アンタ頭へ来たかって、・・・・・いいえ正気ですよ。

以上、2006/7/17「演歌桜・亜矢桜」に投稿

男のロマン・星野先生のこと

むかし、こんなことを書きました・・・・・。

星野先生との出会いは13歳の頃だという。テイチクレコードさんにスカウトされた後、デビュー曲
の録音の時の立合いからずっと亜矢さんを見守ってきた星野先生と千賀さん、お二人ともこの逸材を
見抜く力が凄かったと思う。企業は人なりというけれど、どこの世界でも上に立つ人、或いは総合的
にプロデュースする人はやっぱり人を見抜く力が一番大事だと古今言われている。この事は歌謡界に
おけるプロダクション経営に於いても全くあてはまる事だと思います。
人を見抜く力が無ければ無垢な金の卵でも只の銅だと早合点して惜しげもなく路傍に捨ててしまう。
例えれば最初に亜矢さんを採った事務所さんは、この見抜く力が無かったと思えるから、とてつもな
い大きな素材を失ってしまった。
しかし、テイチクさんは亜矢さんが休業中もずっとボイストレーニングの費用を負担して時期の到来
を待ち続けたというから、盛衰を語る話としては恰好なことだと言えます。

亜矢さんはデビュー以来、山あり谷ありの苦しい時もあったといいますが、我が娘の才能を信じて厳
しく育ててこられたお母さん、そして陰に陽に暖かく見守り、栄光に満ちた将来を夢見ながら掌中の
珠として慈しんでこられた星野先生、亜矢さんの数多くの歌を辿ってみれば、その来し方が他の歌い
手さんとは全く違う道を歩んでこられたことが解ります。
また、1986年からほとんど毎年リサイタルをを開催してきていることなども稀有なことで、他で
はあまり例を見ないことだと思います。現在の亜矢さんの人気ぶりを思う時、このお三方にはひとし
お感慨深いものがお有りなのではないでしょうか。

星野先生は昨年「大器晩成」で作詞大賞を受賞されたが、先生にとっては2度目のことです。これま
で数多くの名曲を生み出してこられた先生ご自身にとっては、どれほどのことだったのだろうかと、
そのお心の中を知りたい気持ちもありますが、永年「日本作詞家協会」の会長を務めてこられた先生
ご自分の作品に、そう簡単に賞を出す訳にはいかないと思うのです。
なみだ船、兄弟仁義、風雪ながれ旅、アンコ椿は恋の花、涙を抱いた渡り鳥、昔の名前で出ています
、みだれ髪等ヒット作品がいっぱいあるにもかかわらずです。

そんな中で、先生は以前からずっと、“亜矢には”何とかヒットを飛ばして貰いたい、何か賞をとっ
て貰いたい、或いは何かあげてくれないかと、ひたすら心の中で思い続けてこられたのではないかと
思えるのです。
この娘は将来きっと大器になると信じて育んでこられたから、この賞に輝いた時はご自身のことより
“亜矢”の歌で獲れた事がひとしお嬉しかったのではないだろうかと思うのです。
ですから、順序が逆だと思うのですが先生が亜矢さんの手をとって受賞の壇上に引き上げられました
が、このことからも先生の思いが伝わってきます。
今日、リサイタル或いは大劇場公演での大成功を目の当たりにする時、ご自身のメガネに狂いがなか
ったと、恐らく震えるような感動を覚えてご覧になっておられるのではないかと勝手に想像していま
すが、私にはそんな風に思えて仕方ありません。まさに、これが男の夢、ロマンなのだと。

ところで、亜矢姫の歌、声、さらに長編名作歌謡劇場一人芝居は海外でも通用するのではないかと思
います。伝統こそありませんが、長編物は多くの音楽芸術創作家が関わっての成果作品だと思います
し、あの声と唄を聴いたら海外の人もビックリ感動ものだと思います。
(海外公演:既開催 97年ロサンゼルス、サクラメント、99年ブラジルサンパウロ~公式HP)
紅白?そんなものとっくに通り越してしまっています。最近、あの番組は特に演歌歌謡曲の人を粗末
に扱うから嫌いです。
まあ、芸は一代といいますから後につづく人が生まれるかどうか分かりませんが、今は亜矢姫の唄芸
を観賞することが出来て大変幸せに感じています。

ひとつ希望があります。各サイトにお出ましの皆様が仰っておられますが、リサイタル、劇場公演で
幕切れがあまりにあっけなくて少し不満です。終わったのだろうか、終わっていないのだろうか、心
の置き所に苦労する時があります。
せめて、最後に緞帳が降りたあと、間をおかずに引き上げて関係者一同で終演のご挨拶をして下され
ば、場内の割れんばかりの拍手喝采は間違いなしだと思うのです。
その時、亜矢姫はじめ、ご出演の方々も分る形で応えてもらうと嬉しく思います。スタンディングオ
ベーションもあるかも、そのときゃ“みづは”さま、先頭をきってお願いしますよ!!

以上、2006/5/3 島津亜矢研究会に投稿

国定忠治の撃剣

忠治は隣村の赤堀市場村(国定村の北、約1キロ程)の本間仙五郎の道場「錬武館」で剣術の稽古を
した。本間仙五郎応吉(まさよし)は真庭念流宗家樋口氏から永代免許を与えられ、世間では本間念
流と呼んでいた。

真庭念流の樋口家は多胡郡真庭村(現:高崎市吉井町真庭)に存するが、忠治が生きた19世紀前半
、上州の村落社会は在村剣術の全盛期であったという。直心影流、小野派一刀流、北辰一刀流、真庭
念流、その他流派が上州一円に拡がり流派を示威する神社奉納掲額が盛んであったという。
この掲額に関して北辰一刀流の千葉周作による伊香保神社(渋川市 伊香保温泉)への奉納掲額に関
して、これを阻止しようとした地元の真庭念流との争いは各派人手を集めて睨み合う大事件となった
というが、この時本間念流も真庭方についたらしい。(最終的には周作方が手を引いた)
この頃、忠治は14歳頃であったが門人であったかどうかの記録はなにも無く、本間念流との関わり
も具体的には分からないという。ただ、高橋敏さんの忠治本では念流を修めただろうという立場に立
っている。

作家の津本陽さんに「国定忠治」という著書があります。
津本さんは剣道三段、抜刀道五段の腕前と言われますので、撃剣についての表現はその知識とも相俟
って真に迫るものがあるのですが、この忠次本から興味のあるところを少し拾い出してみましょう。

忠治は十六歳になると、並みの大人では二人がかりで組みついてもはね飛ばされるような、剛力をあ
らわす。体躯肥満して、二十貫に近い。肥えているといっても、全身岩のように固い筋骨に覆われて
いる。身ごなしがきわめてすばやく、歩行は飛ぶようで、一日に二十里(80キロメートル)歩いて
も平気だと広言していた。
~俺は親父のあとを継いで、生糸の商売などをして年をとりたくねえ。世間をみりゃ、悪賢い奴らが
、飲む、打つ、買うの三道楽をしながら、たんまり金を溜め込んでいやがる。やることといったら、
力のねえ者を絞りあげるばっかりだ。俺はあんな奴らにばかにされていたくねえさ。強え奴をいため
つけるような無法者になってやるべえ。そのためには、まず撃剣やることだ~

先生が稽古のあいまに教えてくれることは身に沁みて忘れない。
「敵を打つときは、敵がこちらを打とうとしかけたときか、敵が息を吐いたときか、敵が引くところ
か、追いこむところか、この四つじゃ。これを先々の先という。
敵を追いこんだときは、敵を切り落とすまでは何本も続け打ちに打て。眼のつけどころは敵の拳じゃ
。拳に目をつければ、敵の動きが遅く見えて凌ぎやすいものよ」
「敵の打ちだす太刀を見切るには、前に出した足をすこし引き、胸をそらせるのがよい。そうすれば
わが体はすこしも引かず、敵の太刀先がわが鼻と胸に当たらぬ間合いを見切ることができる。そうす
ればかならず勝てるものよ」

「強い敵ときりあうときは、払いのけ、外すうちに敵は必ず隙をあらわすものじゃ。動きが鈍くなり
、気によどみのあらわれたところを打てば勝てる」
「斬りあいには調子がある。調子にあわせて刀を振る者は勝つ。調子にあわぬときは斬られる。調子
は稽古を重ねたうえで知るものじゃ。十人十色で、人によって違う調子をすべて知るようになれば、
剣術の達者といわれるほどの腕になる。下手は十度立ちあって一度、調子をあわせるのもおぼつかな
いものじゃ。また、刀で相手の刀を受けとめてはならぬ。どれほどの名刀を用いても受け止めれば必
ず刀身に斬りこまれ、二度と使えぬようになる」

刀は切っ先から三寸下の三寸が、もっとも切れ味のでるように反りがついているので、そこの刃に細
かい疵をつけると、物体を斬るとき、うまく刃がくいこんで日本刀独特のすさまじい切れ味をあらわ
すのである。白磨きの刀であれば、刃がツルツルと滑って切れ味がわるいという。
人を斬れば、刀身に脂肪がついて切れ味がおちるというが、寝刃を十分にあわせておけば(切っ先三
寸下に毛筋ほどの疵をつける)そんな懸念はない。

忠治が十七歳になった文政九年(1826)の初夏であった。毎日、本間道場に通い、古参の弟子をしば
しば打ち負かすほどに腕があがっていた。
~剣術を知らなかったら、村の悪党たちに打ち殺されてしまうところだったなあ~
博徒は無宿者が多い。悪事をはたらくので親族へのかかわりあいがないように、人別を外されてしま
った者である。
彼らは役人の支配力がきわめて微弱な上州の村々を、長脇差を腰に二十人、三十人と徒党を組んで公
然とのしあるき、百姓、町人を脅し、博打に誘う。彼らは町役人、関東取締出役の道案内をつとめる
土着の博徒と通じ、白昼公然と賭場をひらく。

江戸から流れ、中山道から上州へと入り込んできた無宿者も多い。常に乞食同様の暮らしから逃れた
い者は、「通り者」とよばれて集団で横行する博徒の三下になった。
忠治は、そんな中の一人桝音という男を斬って逐電し、近在の大親分大前田栄五郎のところで世話に
なることになる。一年あまり過ぎたころ、栄五郎が忠治に言った。
「お前さんほどの才覚のある男なら、いつまでも生まれ在所を離れていなきゃならねえこともねえだ
ろう。どうだ、かねがね頼まれているんだが、上州の百々村(どうどうむら)の紋二親分のところに
いってやってくれめえか」百々村は国定村とは間近である。忠治は喜んで応じた。

ところで、この紋二さんを笹沢佐保さんが木枯し紋次郎のモデルにしたとの話もある。

国定忠治が百々村の紋二のもとに身を寄せたのは文政10年(1827)十八歳のときであった。本
間道場で撃剣稽古をしているころ兄弟子であった五目牛の千代松(後に、徳の夫)が代貸をつとめて
いたので、居心地がよかった。
天保1年(1830)紋二が亡くなり跡目を継ぎ、国定一家を名乗る。

これよりずっと後の天保13年(1842)田部井村で賭場を開いていたところを関東取締役配下に
踏み込まれて大捕り物となるのだが、忠治は日光円蔵とともに長脇差を揮って血路を開き赤城の山に
逃げ込むみます。
この捕り物が浅次郎(浅太郎)の伯父勘助親分(二足の草鞋)の密告によるものと分かり、賭場にい
なかった浅次郎は勘助とグルだったのではないかと疑われて、勘助殺しでもって身の証しを立てるこ
とになります。

この一連の流れが島津亜矢さんの「忠治侠客旅」に歌われていると思えますが、新国劇作家の行友李
風の戯曲のセリフも入っていて何とも劇的な歌になっています。
亜矢版'忠治もの’と言えば「赤城山」もあって、こちらは如何にも情緒性に富んだ人間忠治が歌わ
れていますが、情味がありとても親近感の持てる忠治像になっています。忠治さんのことを少し穿っ
てみたいと思ったのはこの歌が発端でした。それは、何にも増して亜矢姫の感情を絞り出すようなセ
リフ回しと情感豊かな歌い回しにゾッコンでしたから。イヤ~、参った、参った。


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    Author:ふうてんの猫
    亜矢姫の唄は芸術だと固く信じているおじんです。
    コンサートなどに参加したい気持ちはやまやまなれど、不如意のことが多いので、これは条件が整い次第となっています。

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