田舎のチケットピア

8月28日、NHKBSプレミアムで放送された、三波春夫~歌芸一筋に生きた道~を視聴しました。
そこで、画面に流れて、特に印象的だった三波さんご自身の訓戒を読み返してみたいと思います。

 敬虔な心で 神に手を 合わせたときと 同様に 心を昇華しなければ
 真実(ほんとう)の芸は 出来ない

つぎは、歌手・三波春夫さんの信条
・健康への配慮~芸術集団で風をひくのは犯罪
・舞台での心得~全ての客の心を同時につかむ
・歌い方の心得~歌を崩して歌わない(初めて聴いて好きになって下さったお客を裏切らない)

厳しくご自身を見つめ、律することができたからこそ、数々の芸術作品とも呼べる歌謡浪曲などの歌芸を創
作できたのでしょう。このことを、放送が良く伝えています。
島津亜矢さんは三波さんを先生と呼んでおられます。


むかし。こんなことを書きました・・・・・。

関コンサートへの参加の皆さまの書き込み、読ませていただく者にまでその雰囲気が伝わってきて、とても
感動します。ご報告ありがとうございました。
先日の福岡コンサートも大盛況だったらしく、すごい、すごい、との思いが我が心を支配します。
各ホールでのみなさまの感動の報告を読ませていただくにつけ、居ても立っても居られなくなり、本日、市
内で唯一の「チケットぴあ」窓口へ急遽足を運んできました。自分には本来、今の時期しか出来ない趣味が
ひとつあり、コンサート観賞は自制のつもりでおりましたが、もう我慢出来ない心境となりました。

そこで、「ぴあ」での窓口嬢とのやりとりです。
私:3月10日にね、京都会館で島津亜矢さんていう方のコンサートがあるんやけど、ちょっと空き席の具
合見てもらえますか。・・・私は若い娘相手だから・・・島津のヅはDUでねと一言アドバイス。
・・窓口嬢なかなか捜せないらしく待つことしばし、う~ん長い、それでもジットと我慢して待つ・・

窓口嬢:ああ~、ありました、そうですね空席二つですね、ちょうど3列目の○番と○番がとれますけど。

私:ええッ3列目!!出かける前のネット検索では“お早めにの△ボタン”そんなこともあるのかと思って
内心、なんかうれしいな~という気持ち。
・・そして窓口嬢、分厚い本持ち出してきてパラパラとページをめくり「京都会館」の席の見取り図を私に
見せて3列目ここですねと、指差す。内心うれしかったね~、もうウハウハでしたよ!!・・

そしてね、じぃ~っと目を凝らしてみると、何と何とステージは逆方向、3列目は後ろから3列目。逸る気
持ちは一気に萎えましたね~。そりゃあ、今、人気真っ盛りの亜矢姫さまのコンサートだあ~、そんな筈は
無いと納得はしましたが、・・・それにしても若い娘は亜矢姫さまの値打ちを知らなすぎる・・・その内思
い知る時が必ずくるぞ~、くそっ。

そんなこんなで京都へ向かわれる皆さま、お目にかかれましたら、よろしくお願いいたします。

ところで、最近NHKの番組で「蔵出しエンターテインメント」とかの番組で今は亡き有名大衆音楽家の方
々を取り上げる放送があり、時々見させてもらっていますが、懐かしいですね。
先日は「藤田まさと」さんの放送、あの“旅笠道中”の作詞家の先生です。この先生の作られた歌を亜矢姫
は色々唄っておられますが、今、亜矢姫の‘あの声あの歌唱’で聞けるというのがとても幸せに思えてきま
す。その他、亜矢姫のNHKでの最近の放送では“黒田節”“白虎隊”それと「シブヤらいぶ館」での“見
上げてごらん夜の星を”ちょっと前では“人生劇場”など私は特に何回も聞きなおしていますが、本当に素
晴しいと思っています。

ひばりさんを不世出の歌手と呼ぶ人がいますが、何せ昭和の時代はもう終わりました。今の時代、亜矢姫の
あの艶と張りのある声とその歌唱は何人も簡単に真似の出来るものでは無いと、つくづく思うこの頃です。
良いものには惹かれる、精魂こめた至芸を堪能したいがため、人々はわざわざ劇場まで足を運びます。
芸事と呼ばれる世界はどの分野でも同じだと思うのですが、人々を感動させることができなければ繰り返し
足を運ばせる事にはならないでしょう。
亜矢さんの場合は、声であり、歌であり、歌唱であり、パフォーマンスであると思います。それら、感動を
呼び起こさせる至高な芸に惹かれて、人はいそいそと足を運びます。

歌謡曲を単なる流行り歌ととらえる向きもあるかと思いますが、それを芸道として昇華された先人もおられ
ます。島津亜矢さんの目指しておられる道はまさにこの芸道の道だと思うのです。そしてさらに多くの人々
に感動を与え続けて欲しい、そう願っております。

ヒットなど計算して出来る物でなし、これに固執していては大きく遅れをとってしまう事もあるでしょう。
こんなことに思いを巡らせれば、星野先生による亜矢さんの持ち歌の詞が大きな説得力をもって胸に伝わっ
てくる思いがします。
今は、深く静かに浸透せよ。何か昔の映画の題名みたいな言葉になってしまいましたが、必ず姫の時代はく
るのです。

以上、2007/2/14 演歌桜・亜矢桜に投稿

08/28のツイートまとめ

kinsyuu3

BSプレミアム三波春夫特集、以前放送のものをベースにしながらも今回は歌謡浪曲を大きく取り上げての大幅な編集替えで放送された。歌芸、芸道が復権の機運。継承する島津亜矢さんにエールを送りたい。
08-28 23:09

今年の期待(2007年正月)

むかし、こんなことを書きました・・・・・。

年末はスカパー忠臣蔵に期待しましたが、凡作で期待はずれ。仕方なしに眠りまなこで見た紅白もなんの感
動も感慨もなし。元日のスカパー「壬生義士伝」こちらは秀作、渡辺謙さんの好演が光っていて楽しめた。

さて、皆さまは如何お過ごしでしたでしょうか。
二日にはNHKテレビ「プロフェッショナル・仕事の流儀」を見ました。ご覧の方も多かったと思います。
この番組中でプロ中のプロが吐いた言葉が示唆に富んでいてとても印象的でしたので、下に記してみたいと
思います。

 !!ファンがいてくれるからどんな努力もする!!・・・イチローさん
 !!ファンを圧倒し選手を圧倒したい!!・・・イチローさん
 !!もっと上を目指すこと!!・・・小野二郎さん(82才現役すし職人)~三ツ星レストラン
 !!才能とは努力を継続できる力!!・・・羽生善晴さん(これは別日の番組だったかも?)

そう言えば、亜矢姫の今年の目標も真摯な気持ちが出ていてとても好もしく、覇気が感じられます。
!!信じた道をただ一生懸命!!“信じた道”とは何か、従前の道はもちろん踏襲してくれるのだろうけど秘
めたる目標もあるに違いない。

さて、今年はどんな至芸を見せて下さるのか、またどんなに大きくなった姿を見せて下さるのか、期待が膨
らみます。
“人間の一生はなにげにすごすことができるが、鮮明な主題のもとにいきてゆく人もいる”司馬遼さんのあ
る小説の中に出てくる言葉ですが、非凡な人はそれぞれに仰る言葉に含蓄があります。

星野哲郎先生は「島津亜矢大全集6枚組み」の歌詞栞にメッセージを寄せておられます。
・・デビュー以来20年になろうとしている、彼女の目標であった「山」の麓にたどりついた。これからが
正念場である。実力は十分、自惚れさえなければ、今年、これ程楽しみな娘はいないと断言できる。・・
星野先生は山の麓にたどりついたと書いておられますが、これから登る山はどんなだろうと目を離すことが
できません。亜矢姫はプロ中のプロ、踊り場を経て次第次第に高みに登っていきます。小野二郎さんのよう
に、ご本人にとっては極みというのは無いのかも知れないけれど、その時その時に見せて下さる至高の唄と
芸に、ファンは心を熱くし、また心酔し、心からの喝采を送ります。

この大全集を聞くとき、星野先生もディレクターさんもお母さんも、その他関係する皆さんも輝かしい遠い
将来を見据えながら支援を行い、それに応えて亜矢姫は聞き応えのある唄芸をじっくりと醸成することが出
来たのだと、思い知らされます。
世に流行歌手と言われる方々は多くおられますが、一時の受け狙いをせず、唄芸の真髄を求め続けそれを地
道に積み上げてこられた努力の結果の一つがこの大全集となって現れたのでした。

聴く人をどこまでも心地よくさせるあの美声、台詞での主人公なりきりの言い回しとあの絶妙な間のとり方
、類まれな歌唱力を持ち、ある時は“うなり”、 ある時は高音部伸ばしでの“鈴ころがし”、またある時
はピアノ、フォルテを自在に使い分け情感たっぷりに“訴えかける”。数えあげたらまだまだあると思いま
すが、聞き分ける力を持つファンの方々が大勢いらっしゃいますから、これらの事はそれぞれの方にお譲り
することにします。

この大全集の通販広告が新聞に大々的に掲載されたとの書き込みを読ませて頂くにつけ、いよいよ花開く時
がきたのかと思わせますが、それでも歳を経なければ達し得ない、すなわち経験することでしか越えられな
い領域もあると思います。イチローさんのようにファンを圧倒する気概をもって突き進んで欲しい、それが
我らがファンの願いです。
いつまでもいつまでも応援し続けます。なにせ思い焦がれていますから。

以上、2007/1/12 演歌桜・亜矢桜に投稿

亜矢姫讃歌

むかし、こんなことを書きました・・・・・。

夜桜挽花様、皆様こんにちは。
ふんこがすぞ様、はじめまして、私は永平寺町に住まいしている同県人です、力強いファンの方にお出まし
いただいてますます賑やかになります。亜矢さんのサイトもここ以外にたくさんあり、それぞれに熱いファ
ンの方が出ておられます。サイト巡るのも楽しいですよ、今後ともよろしくお願いいたします。
みづは様、ガチャピン様、亜矢を愛するファン様、やじきた様、吉三郎様、みなさまそれぞれの思い、いち
いち頷きながら楽しく拝見させて頂いております。ありがとうございます。
みづは様「亥年生まれ」のお考え、同感です。よくもまあ、これだけスラスラとお書きになれることに感心
します。ますますのご活躍を期待しています。

亜矢姫の唄、すばらしいですね、地声であの高音まで唄える方は、亜矢姫以外の方では布施 明さん位しか
思い浮かびませんが、布施さんの場合は声楽風のオシャレな歌がお得意のようで、演歌までは手を広げてお
られないと感じます。姫さまには幅広いジャンルでのますますの活躍が期待されます。
通常、演歌の方は唄が上手いと言われますが、亜矢姫の場合は際立っています。クラッシックの方と比べて
もなんの遜色もない、むしろ何でも唄えることに関しては圧倒的だと思います。多彩な歌、歌唱がファンを
厭きさせない、そして何とも言えない感動を与えて下さる。もう、離れられませんね。

それでは、“ふうてんの猫”が何やら話したいと言っていますので、交代します。家主さま、お許しを。

“ふうてんの猫”の戯れ言
皆様こんにちは、
久し振りに顔出しさせていただきます。そう、昨年の金沢コンサート以来ですかね、ともかくよろしくお願
いいたします。私もね、インターネットなる超便利なものがあるので、あちこち飛び回っては、楽しんでお
りますが、先日も下のサイトを巡ってきましたので、少しだけ話させて下さいね。

Yahooサイト~チケット~音楽~演歌と開いて公演名(あ~わ)を全部チェックしますとね、これがまた目
パチクリだ、私が好きで好きでならねぇえ亜矢姫さんの公演数は2ページにも亘ってズラリですよ、まあ~
凄いもんだ、ダントツのナンバーワンですよ!!思うにねぇ、こりゃあ、私たちが考えているより亜矢姫さ
んの歌を聞きてぇというファンが想像以上に全国的に広がりを見せていることになりゃあしませんか、公演
を仕切るプロモーターさんはお客が見込めなけりゃ企画などする筈がねぇし、興行の成否は即、損益に直結
するから真剣勝負じゃねえのかしら、やっぱりいいものは聴きてぇという亜矢姫ファンが多いというのを、
プロモーターさんはちゃんと嗅ぎ分けているんですねぇ、この方々はやっぱり真のプロですねぇ。

親方日の丸の、いや違った、親方視聴者の公共放送が思いのままに出場者を選んでやる年末恒例紅白番組な
んぞは、どう転んだって銭金のこと心配することはねえぇから気楽なもんだ、まして一般視聴者の意見など
意に介することもしねぇから、ちょっと理解し難い選考もある。まあ、色んな理屈はつけられるだろうから
文句言ったって始まらねぇけど、聴視者が払った銭で番組作るんだから、世の中の動向ぐらいはしっかり掴
んでやって貰いてぇもんだ。“こがれ”の奴は抗議の電話と、メール送ったと言ってたなぁ~。

私ゃね、大晦日はめずらしく目が覚めてたもんだから、久し振りにあの番組見たけど、演出は下手だねぇ~
、演歌があったと思えゃ若者の歌だ、私の知り合いなんかそのたんびにチャンネル、パッパッ、全く落ち着
いて見てられねぇと言ってましたよ、それと、何で亜矢ちゃん出さないんだ、NHK!どうなってんだ!!
、とね、そんなの私にくってかかったって知らねえよ、あちらさんに聞いてくれだ!! こんな話する人、
他所でも多かったみたいですよ。

おまけにね、裸のお姐さんの集団が舞台狭しと踊るんだ、なんだこりゃあ、どんな屁理屈言ったってテレビ
見てる私にゃ素っ裸にしか見えなかった、NHKさんも大胆なことやったねぇ~、いや~もうびっくり仰天
しましたよ、このように初めて見る奇怪な騒ぎや、流れに乗らない変てこな演出があったりで、おまけに司
会者が醒めてる、こんなんなら自前のアナウンサーさんの方が余程好い、そんな訳でちょっと白けて見てま
したが、まあ、興趣が削がれることが多ぉございました。こんな構成演出をいつまで続けるんだか、これで
は視聴率がジリ貧になるのも解る気がするねぇ。

それにしてもこの番組、余程改善してくれなきゃ、亜矢姫さまが出る値打ちはねぇと思えてしまいましたが
、皆様はどう思われましたかねぇ。
亜矢姫さまはこの番組にこそ出ないが、もう押しも押されもしないスーパースターですからねぇ、本人さま
がどう思っておられるかに関わらず、紛れもない事実として世間の動きがそうなって来てるんだから。
私の願いはただ二つ、亜矢姫さまが健康にだけは気をつけて、人様のために大活躍をしてくれること、それ
とコンサート入場料、現状よりは大きく離れない庶民のレベルでいつまでも行ってもらいてぇ、と、これだ
けは切に願いますよ。
良いものは出来るだけ多くの人に!これですよ、博愛の精神でねぇ。
今までの話ね、本音なのですよ。

それではね、先日、“こがれもん”が書いた「亜矢姫讃歌」の元歌を回答しますね、さすが詩人の書いたも
のは一言一句が素晴しいですねぇ、暇人ですから遊んでみただけですが、お時間のある方は読んでみてくだ
さいね。

“亜矢姫讃歌”
生まれ火の国あとにしてたどる炎の歌の道 ・・・演歌桜(作詞 新本創子 作曲 三島大輔)
明日の行方は知らないけれど ・・・・・・・・・波(作詞 星野哲郎 作曲 船村 徹)
惚れた仕事に命をかけて ・・・・・・・・・・・紀伊国屋文左衛門(作詞 北村桃児 作曲 長津義司)
夢という名の舟をこぐ ・・・・・・・・・・・・波(作詞 星野哲郎 作曲 船村 徹)
親に貰ったこの血の中を熱く流れる命潮 ・・・・道南夫婦船(作詞 星野哲郎 作曲 新井利昌)
夢を持たなきゃ渡れない ・・・・・・・・・・・桃色鴉(作詞 星野哲郎 作曲 村沢良介)
意地の筋金一本通し ・・・・・・・・・・・・・沓掛時次郎(作詞 宮沢守夫 作曲 村沢良介)
炎と燃えますおんな舞 ・・・・・・・・・・・・お七(作詞 星野哲郎 作曲 村沢良介)


思い出すまい故郷のことは晴れて錦を飾るまで ・一本刀土俵入り(作詞 高月ことば 作曲 村沢良介)
人情からめばもろくなる ・・・・・・・・・・・鴛鴦道中(作詞 藤田まさと 作曲 阿部武雄)
道はひとつだ夜空に燃える ・・・・・・・・・・小鉄の女房(作詞 門井八郎 作曲 沢しげと)
苦労ひとつに 夢がある ・・・・・・・・・・・憂き世春秋(作詞 新本創子 作曲 三島大輔)
西へ傾く昨日は追うな東に出てくる明日を待て ・袴をはいた渡り鳥(作詞 星野哲郎 作曲 市川昭介)
笑顔をあなたと たやさずいたい ・・・・・・・・憂き世春秋(作詞 新本創子 作曲 三島大輔)
この世は海より まだ広い ・・・・・・・・・・壽舟(作詞 荒川利夫 作曲酒田 稔)
明日を信じて生きてゆく ・・・・・・・・・・・憂き世春秋(作詞 新本創子 作曲 三島大輔)


人を押しのけ出世のできる柄じゃないぜとあきらめて・・度胸船(作詞 星野哲郎 作曲 市川昭介)
一里を登る 牛になれ ・・・・・・・・・・・・出世坂(作詞 星野哲郎 作曲 市川昭介)
こんな苦労は苦労じゃないと ・・・・・・・・・小鉄の女房(作詞 門井八郎 作曲 沢しげと)
闘志が結ぶ出世坂 ・・・・・・・・・・・・・・出世坂(作詞 星野哲郎 作曲 市川昭介)
近道なんかするよりもおのれの心に嘘をつかず ・旅笠道中(台詞構成 野本高平 作曲大村能章)
生きてみたいと思います ・・・・・・・・・・・旅笠道中(台詞構成 野本高平 作曲大村能章)
季節が巡れば春の顔 ・・・・・・・・・・・・・お吉(作詞 志賀大介 作曲 村沢良介)
祝いの拍手に送られて大きな夢をソーレヤ ヤンレヤ・・壽舟(作詞 荒川利夫 作曲 酒田 稔)


風が変われば 俺等も変わる ・・・・・・・・・旅笠道中(作詞 藤田まさと 作曲 大村能章)
春が来りゃぁ世に出ます ・・・・・・・・・・・旅笠道中(台詞構成野本高平)
あれを御覧と指さすかたに ・・・・・・・・・・大利根月夜(作詞 藤田まさと 作曲 長津義司)
雲が流れる悠々と ・・・・・・・・・・・・・・大器晩成(作詞 星野哲郎 作曲 原 譲二)
大器晩成あしたにかける夢と希望の大空を ・・・大器晩成
若く凛々しい足跡を刻みつけようこの大地、・・・大器晩成

以上、2007/1/7 演歌桜・亜矢桜に投稿


愛のかたち~岡本太郎さんと敏子さんの場合(4・終章)

太郎と敏子~瀬戸内寂聴が語る究極の愛~

ナレーター~病気の太郎を敏子が支えていた頃の作品が見つかっている。川崎市から依頼された壁画の下絵
、此処には絶頂期の勢いは見られない。平成5年壁画は披露された。完成作には鮮やかな色彩がほどこされ
ていた。手足が思うように動かない太郎の意図を汲んで敏子が指揮を執り作品に仕上げていた。
「水火清風」(平成5年)。
敏子は芸術家としての太郎の衰えを最後まで世間には見せなかった。

ナレーター~翌年の日記、太郎の病状はいよいよ悪化した。
ナレーター(日記)~「俺が岡本太郎でなくなったら、自殺するよ」何のきっかけだったか、彼がそう言っ
たことがある。「だけどその時はもう気力がなくなって、自殺する気も起らないかもしれないな」と困って
いる。「だったら、その時は私が殺してあげますよ」実感がなかったから、笑ってそう言ったが、もう何年
も、彼は岡本太郎でなくなっていた。もどかしく、悲しい。三時ごろから、ほぼ一時間おきにおしっこに起
こす。うっかり寝入るとベッドから落ちてもがいている。
昼も、一ときも眼を離せず、ついて歩き、立たせ、座らせ、食べものを口に運び、しょっちゅう話しかける
のだが、会話というものは成立しない。でも岡本太郎さんには違いないのだ。どこまで解っているのか、何
か考えてることがあるのだろうか。あの人を守りぬいてみせる。たとえ彼には、何もわからなくとも。

寂聴・・長かった太郎さんの闘病時代、忙しさを口実に二人の家への私の足は遠のいていました。私はもう
太郎さんじゃない太郎さんには会いたくなかった。お見舞いにも行かなかったし、もう逃げてましたね。
ほんとに自分の嫌いじゃない人が、もう、みじめになってるの見たくないじゃないですか。よぼよぼになっ
てるのも見たくないじゃないですか。

ナレーター(日記)~夕方彼をマンションから二階の食卓につれて来て、エプロンをかけさせようとして、
思わず抱きしめてこう言った。
「先生、先生と一緒に闘いたいわねえ。闘ってるのよ。一生懸命。わかる?私の出来る限り、闘ってるのよ。
見ててね。見てて、助けてね。」表情は動かなかったようだけれど。あの人の生命の根源をゆり動かしたい。
岡本太郎にもどしたい。時々でもあの魂が発振する時があったら、会話が出来たら、話しかけてみよう。
独り言でも。
・・太郎と敏子、二人の闘いは10年に及んだ。平成8年1月7日、岡本太郎死去。敏子に支えられ敏子に
みとられて終えた84年の生涯だった。

ナレーター~二日後、親しい友人を集めて、お別れの会が開かれた。一人になった敏子、皆の前では気丈だ
った。
寂聴・・何にも悲しくないって、いうのね、太郎先生は死んでなんかいないわよ、生きてますよ、この部屋
に充満してますよ、この世界に充満してますよ、なんてね、そういう風なの。もう興奮してしまっている、
もう、とにかく死んでないんだってね、太郎先生はいきてるんだってね、そそういうことを口走って。

ナレーター~太郎の死から7年後(平成15年9月)敏子の姿はメキシコにあった。
太郎が万博のころに描いた壁画‘明日の神話(昭和44年)’飾られる筈のホテルが倒産し、その後行方不
明になっていた。ひびが入り絵具の剥げ落ちた姿ではあったが、実に35年ぶりに探しあてた。
(屋根だけの倉庫に透明のビニールシートで覆われた、この絵を発見した時の敏子さんの驚き喜ぶ様子が映
像から感動的に伝わってきましたが、ここのところは文章ではちょった表現がむずかしい)

・・敏子は太郎の死後、その仕事を世に知らしめる活動を精力的に行った。
・・平成11年 川崎市岡本太郎美術館開館、太郎の作品およそ1800点を収め、その魅力を広く人々に
伝えている。
そしてメキシコの壁画‘明日の神話’をいよいよ日本に持ち帰ることになった。

敏子さんへのテレビインタビュー・・・「いまこそ、見せるときだぞっ、とか、太郎の意思を感じるのよ、
いま、ひょっこり現れたんですもの、ずうっと捜してたのよ、見せたいわ、見てもらいたいわ、もうすぐよ
、持って帰ってきますから」
(この画はいま、渋谷駅の連絡通路で公開されています)
・・このインタビューの6日後、全ての仕事をやりとげたかのように敏子は突然亡くなった。(平成17年
4月死去、79才だった)

寂聴さんは語る・・・
敏子さん貴女が亡くなってもう6年になります。貴方が残してくれた日記や手紙を読み終えたいま、改めて
太郎さんと貴女の愛の真実をかみしめています。
岡本敏子という女性があって、岡本太郎に惚れきってて、それで、死んだ後までね、その作品を捜しだして
きてね、一生懸命彼の芸術を世に広めようとしたって、ただそれだけをね皆さん知ってあげて下さいって、
言いたいわね、。こういう生き方もあるんですよ、ってことね。ここまで愛し通した人というのは少ないん
じゃないかしら。

太郎の死後も敏子の日記は続いていた。
ナレーター~「岡本太郎さんとの恋愛が、またはじまったのよ。恋愛の小説も書いてるし、彼の魅力を知ら
しめる、真面目な原稿も、テレビも、次々とこなしているし。あなたがどんなに素晴らしい、チャーミング
な、そして凄い人だったか、これから私のいのちをかけて、世に知らしめてあげる」
「太郎さんが亡くなったら殉死するのよって私はずっと言っていた」
「亡くなってから、彼の指令で、次から次へと、やらなければならないことが押し寄せてきて、殉死どころ
じゃなかったけれど」「もういいでしょう、十分やったのよ、という時が来たら、私はぽっくりといきたい
。もう遠くないような気がする」


 島津亜矢さんが「袴をはいた渡り鳥」「武田春秋」を引っ提げてデビューしたのは1986年(昭和61)
5月のことでした。
いま手許に、風工房発行の小冊子「むぞらしかVol.5」があります。この中の‘亜矢ちゃん史’にデビュー
のころの記事があるのですが、少し引用します。・・・芸名をきめる時、星野先生が「亜矢子は熊本生まれ
だから、『球磨川亜矢』が良いな・・球磨川は熊本県人吉市にある、三急流の一つ。・・大きく、激しく、
そして娘のように清らかにとのイメージだったみたいです。
テイチクの皆さんが話し合い、結果「島津亜矢」で決定!!

衣装は袴という事になり、画家の岡本太郎さんが、袴に斬新に描いて下さり・・・と、
あります。
(この時、依頼交渉の窓口に立たれたのは、奥様の敏子さんだったかもしれませんねぇ。)
このことからも、周囲の方達がいかに亜矢さんに期待をかけておられたか、解ろうというものです。
当時の袴は、いまは亜矢さんの身丈には合わないでしょうから、お手元に宝物として大切に保管されている
ことでしょう。
それと、このVol.5に、スカウトして頂いた方でテイチクの牧野部長というお名前が見えますが、いまはど
こから亜矢さんを見守っておられるでしょうか、さぞかし、感慨深いものがお有りではないかと察せられま
す。歌手、島津亜矢の生みの親とも言える方なのでしょうから。

いま、このデビュー当時の袴姿はテイチクの亜矢姫専用サイトにも、公式サイトにも有りません。Googleの
画像検索をしてみますと、その雄姿を見ることが出来ます。

亜矢姫の杜 公式ホームページもアクセス数が104万回を超える人気サイトになっていますが、コンテンツの
なかには昔のまま更新されていないものもあり、全面的な改善が望まれます。
そしてリニューアルの時には岡本太郎画伯の手になる袴姿の雄姿も是非掲載して欲しいと思うのです

86-simazu-aya[1]
        

愛のかたち~岡本太郎さんと敏子さんの場合(3)

太郎と敏子~瀬戸内寂聴が語る究極の愛~

寂聴・・本当にとし子さん、'先生、そこ紫'、そうすると、ばぁ~と紫を描くの、可笑しかったですよ。
だから私はね、本は敏子さんと二人の共著だと思ってたのね。絵は太郎さんが一人で描いていると思ってた
の、それまで。
ああ絵まで一緒かと思ってね、その時愕然としたの、敏子さんがこう描いて欲しいというふうな、あれが、
あるんじゃないかしら、それが割といいんじゃないですか、敏子さんの感性が。
太郎さんもそれが自分の感性よりもずっと劣っていたら相手にしないと思いますよ。敏子さんを信用してい
たんじゃないかな、彼女の芸術性をもね。

ナレーター(日記)~「あんまり口を出すと、‘うるさい、描くのは俺なんだろ、だまってろ’彼はどなり
つける。」だが、私も真剣に怒っている。彼の絵だからって、彼が正しいとは限らない。

寂聴・・あのぉ、敏子さんに言わせたら、おそらく太郎さんと一緒に苦労している絵をずっとみてね、だん
だんだんだん太郎さんと一体化してきてね、絵までも自分が描けるような気が、錯覚を起こしたんだと思い
ます。

ナレーター(日記)~彼は疲れる。くたくたになって、かわいそうになっちゃう。しかし、今度の個展まで
で使いつぶしちゃったとしても、私はけしかけ、尻を叩く。私はその覚悟だ。彼は私の捧げたいけにえ。

寂聴・・この子をみて頂戴、これは私が作ったのよ。そういう、感じじゃないかしら。どうしても、岡本太
郎をもっともっと世に知って欲しい、もっと作品を残したいって、その一心ね。
だから太郎さんが有名になればなるほどね、重んじられれば重んじられる程、それは敏子自身の才能が重ん
じられていることになるんですよ、だから、世間は知らないけど岡本太郎は私よ、と、いう感じがあったと
思う。あれはね、やっぱり愛してたんですよね。そして岡本太郎が自分だったんですね。

ナレーター~その翌年二人の間にある結論が出されていた。これが敏子さんがつけておられた業務日誌です
。昭和37年の日誌。12月、養子縁組の届を出したとの記述があった。そのことを示す戸籍謄本が残され
ていた。昭和37年12月17日、かって恋人同士であった二人は親子になった。何故二人は養子縁組を結
んだのだろうか、敏子の弟、平野繁臣を訪ねる。長く二人の創作活動を手伝ってきた。養子縁組の事情を聞
いた。

平野繁臣さんは語る・・太郎さんは自分の残した作品を売らない人でしたから、自分の作品を後までちゃん
と管理してくれるためには、立場が妻では駄目なんですね、相続上は妻だったら二分の一しか相続権はない
んですよ、後の二分の一は子供のものなんですね、子供がいない場合兄弟とかにいっちゃう訳ですよ、それ
だと散逸しちゃうでしょ、だから自分の作品を散逸しないで絶対に守り通して一つのところに固めておくた
めには、養女ってのが一番理想的な手段であると思ったんでしょうね。自分の作品をすべて敏子に受け継が
せる。太郎の敏子に対する絶対的な信頼の証しでもあった。

寂聴・・何故、太郎さんは敏子さんを妻にせず養女にしたのか私もついに聞かずじまいでした。養女という
選択は創作のパートナーとして支えつづけてくれた敏子さんへの、太郎さんなりの愛と感謝の表れではない
でしょうか。そして敏子さんは太郎さんの気持ちを素直にうけたのではないでしょうか。私にはそう思われ
ます。

ナレーター~昭和45年に開かれた大阪万博、そこにそびえたのが岡本太郎の代表作、太陽の塔、高さ70
メートル今も万博の顔として親しまれている。この時期、太郎が取り組んでいたもう一つのプロジェクトが
あった。メキシコのホテルのロビーに飾る巨大壁画の製作である。縦5.5メートル横30メートルにも及
ぶ作品、「明日の神話」(昭和44年)。選んだテーマは原爆、悲劇を乗り越えて輝く人間の生命力を表現
しようとしていた。
大作を次々と手掛け絶頂期を迎えていた太郎、その創作は独自の信念に支えられていた。

昭和59年放送「NHK教養セミナー」での太郎の映像が語る。
・・・芸術はきれいであってはいけない、うまくあってはいけない、心地よくあってはいけない、ってのが
芸術の三原則にしちゃっている。

ナレーター~しかし、強い信念は軋轢を生んだ。万博の現場でも摩擦が起きていた。会場の中心となるシン
ボルゾーンは地上30メートルの巨大な空中建築で覆われる予定だった。この近未来的な建物を設計したの
は日本を代表する建築家丹下健三だった。
大屋根を壊す気か、太郎は最後まで主張を貫いた。大屋根を突き破る大胆な傑作「太陽の塔」は、摩擦や批
判に苦しみながら生み出されたものだった。

ナレーター~激しい軋轢のさなかにあった太郎を敏子はどのように支えていたのだろうか。
太郎の元で太陽の塔の設計を手伝った千葉一彦(大阪万博テーマ展示サブ・プロデュユーサー)に聞いた。
千葉一彦さんは語る・・真ん中の顔にしても十種類ぐらいあったのかな、微妙に違う、表情がね、なんか僕
らから見るとすればどれも区別がつかないような顔だったんだけど、敏子さんしてみれば、‘これが素敵’
というのがある訳ですよ。‘これでいいんじゃない’って決まったのがこれですよ。
太郎先生にとっては敏子さんは母でしょうね、きっと、常にこう、側にいたい、甘えたい、敏子さんの胎内
にいることが一番安心して穏やかで、こういうことなんじゃないんでしょうかね。

ナレーター~今回発見された敏子の日記にも、太郎が敏子に頼り切る姿が記されている。
「おれは辛いことがいっぱいあるのに、世の中に対してはそういう話はしていない」彼は「母性愛をもって
おれを包んでくれよ、おれは悲鳴をあげてるんだから」という。
一方、敏子の言葉も母性愛にあふれている。・・・今日ロンドン空港で一日に投かんした手紙が届く。やっ
ぱり飛行機に弱くて、いささか参っているらしい。あの過敏な子が、せっせと歩きまわっているところを想
像すると、切ない。

寂聴・・太郎さんは、敏子さんが思ったより有能だからね、だから、頼り切るようになったでしょ、変化し
ていく愛をどういうふうにしてコントロールするかっていうので保つわけでしょ、だからいつのまにか友愛
になっていたりね、或いは肉親的な愛になってたりね、そういう風に変わるんですよね。

ナレーター~還暦を迎えようとする太郎、40代に差しかかった敏子、太郎をけしかけ、必死で共に芸術を
作り上げてきた敏子は、今、太郎を包み込む母として創作をささえるようになった。
晩年の太郎はテレビタレントとしても活躍し人気を博すようになったが、その陰に病魔が忍び寄っていた。
パーキンソン病、手足が思うように動かせなくなる病気である。敏子にとって辛い日々が始まった。

ナレーター~昭和61年、太郎が75才、敏子が60才、この時寂聴さんは長野の寺に招かれ講演を頼まれ
たのだ。二人と顔を合わせる機会となった。太郎さんも講演をしたのだが、話の焦点が定まらなかったと参
会の方が語る。太郎の様子をまじかでみていた敏子、母役に徹していたとは言え、その心痛は計り知れない
ものがあった。
太郎が寝たあと女三人(敏子、寂聴、住職の妻)で話していたときだった。苦境に立たされ気持ちが弱って
いた敏子さんは、自身が死んだら太郎さんの面倒を見て欲しいと、寂聴さんにせがむのだが、即座に断られ
る。この時を境に自分が最後まで岡本太郎を支えきる決心ををしたのだろう。
                                         ・・・つづく

愛のかたち~岡本太郎さんと敏子さんの場合(2)

太郎と敏子~瀬戸内寂聴が語る究極の愛~

ナレーター~太郎は歌人で作家の母かの子と漫画家の父一平という、芸術一家に育った。岡本家には母かの
子の愛人も同居していた。常識とはかけ離れた家庭だった。一般的な家庭で育った敏子は太郎の型破りな恋
愛観に、なかなかついていけなかった。
それでも太郎を愛し別れることの出来なかった敏子、悩み苦しんだ末一つの結論を出した。それは恋人とし
てではなく仕事のパートナーに徹し、太郎の才能を引き出すことに専念するという選択だった。

ナレーター(日記)~私は「もっともっともっともっと、今のうちに、十倍も、三十倍も生産しなければ」
と宣戦布告した。私はもの凄く欲張りになっている。今のうちに岡本太郎に気力があり、彼が生きているう
ちに、そして彼という社会に対して魅力的な生物が健在であるうちに、あらゆる多彩な生産を成就しなけれ
ばならない。
ショウウインドー、花布、日劇のショー、映画、あらゆることをやらせたい。どんどん私が生み出し推し進
め成熟させたい。私のかってない野望、欲張りが眼芽吹いてきている。私は彼を要素として見る。

ナレーター~あれほど愛していた太郎を「要素」と言い放つ敏子。それは太郎と一緒にいたいと願う苦渋の
選択だったのだろうか、しかし、この事が太郎の芸術を大きく羽ばたかせることになる。
敏子は太郎の活躍の場を積極的に広げていった。独創的で斬新な彫刻の製作、夜空にヘリコプターの軌跡で
画をかくという企画、SF映画のキャラクターデザイン、敏子は太郎の仕事を一手に管理する秘書として自
分の居場所を確立していった。

寂聴・・私が二人と出会ったのはちょうどそのころでした。昭和36年。「かの子繚乱」を書くために太郎
さんのアトリエに足しげく通っていました。私の登場が敏子さんに思いがけない不安を与えるようになろう
とは、私は全く気づきませんでした。
太郎さんと付き合い始めて、ある日突然以外な申し出を受けました。「ところで君ね、いつも着物を着てい
るから、やっぱり畳の部屋がいいんかい」と、言うんですよ。いきなりですよ、何言ってるか解らないので
すよ、えぇっ、と言ったら、もうそろそろ此処へおいでよ、って言うんです。
此処って岡本家ですか、うん、もうね仕事は敏子さんの仕事がとても忙しくてね、可哀そうだからね、君は
ね文章がまあまあだからね来て手伝ってやってくれよ、と言われたけれど、悪いけれど私はやっと小説家に
なって一国一城の主ですからイヤですと言ったんですよ。

そしたらね、エッとか言ってね、バカだなぁお前はとか言って、天下の岡本太郎を助けるために一生捧げる
って、こりゃね、女の最高の幸せだよって、それが解らないでバカだとか言ってね、怒られたんですよ。
まあ、敏子さんが居なかったら秘書をしてあげたかも知れないですね。そうなったら、そりゃ、結婚しまし
ょうよって言ったかも知れませんねぇ。

ナレーター~こうして敏子さんの日記を読むと当時のことが色々思い出されます。日記のなかにはびっくり
させられるようなことが沢山ありました。
「二時からパーティーの予定。横浜駅に出迎え。瀬戸内さんも帰ってきた。瀬戸内さんがパッと鮮やかな白
地の小紋で、きれいなのに驚く。あの人はいま、老年なんか感じてるひまがないのだろう。照りはえてる感
じ。

寂聴・・私の失言が敏子さんの心に一種の刺激を与えたのではないでしょうか、私が現れて一か月後の日記
がありました。
ナレーター(日記)~「断片だけど、小説を書きだした。私はもとの私にかえっている。」
ナレーター~当時、瀬戸内は「夏の終り」で女流文学賞を受賞、作家としても女性としてもまさに輝いてい
た。・・・瀬戸内の失言は敏子にどのような影響を与えたのか、当時の様子を知る人物を訪ねた。
岡本家に住み込んで家事をしていた、冨田よし枝さん。40年以上太郎、敏子と共に暮らし敏子の気持ちの
変化をまじかに見ていた。

冨田さん談・・内心は瀬戸内先生に対しては怖かったんじゃないですか、ライバル意識があって、(瀬戸内
先生は)作家だから原稿もね、得意なんでしょう、(太郎)先生がお願いすれば瀬戸内先生だってお手伝い
するかもしれないじゃないですか、自分の立場が壊れるかなっていう不安はあったんじゃないですか。・・

ナレーター~ようやく確立した秘書の座を瀬戸内に奪われてしまうのではないか、追い詰められた敏子がさ
らに太郎との結びつきを強めようとする様子が日記から伺える。
「新しい攻撃目標は何なのかしら?」まだ達しない何か、目前の峯に対して、アタックをかけていないと、
空虚になってしまう。彼に再び火をつけなければ、私の意味もなくなってる。

ナレーター~その頃、敏子と太郎の結びつきを深めるきっかけとなる出来事があった。太郎が美術団体二科
会を脱会したのだ。二科会は日本の美術界に大きな影響力を持つ団体、当時、画家が団体に属さず一人で活
動するのは困難だった。敏子の助けは不可欠となった。
二か月後には個展が控えていた。画家としての運命を決める瀬戸際、太郎は猛然と新作を書き始めた。日記
からは日々アトリエで太郎に付き添う敏子の様子が浮かび上がる。

「この頃毎日、一日中絵を描いている。それを眺め、けしかけ、相槌をうち、キャンバスをとりかえ、あれ
これ世話をやき、私も張り切り、新鮮になり、スリルに輝いて疲れにも気がつかない」

調査中の日記から新たな記述が見つかった。敏子が絵の内容にまで深くかかわり始めていたのだ。
・・太郎・・どうもこれははっきりしなんだ、お前が急ぐからだよ。モチーフがまだはっり決まらないうち
に描き出した。
・・敏子・・あら、そんなことはないじゃない、モチーフはあったじゃないの。この絵はね、こってりして
、頽廃的で何か妖しい、そういうものになれば出来上がりだとおもうのよ、私は。 
「ふうん、そうかね」なんていって彼は描きだす。ずばずばずばと黒い点々を描き、緑を入れ、黄色を静か
に沈ませ、一気呵成に、みるみる絵は、凄みををおびて輝きだしてきた。
「いいじゃない、変に美しい。そうよ、こういうのよ。ねえ、この絵は明快にはしないでね。頽廃的でなき
ゃ駄目よ。」
「何が頽廃的だい」と彼は笑っている。「だけど出来たな。判ったよ、もうこれは出来る」

日記に記されていた絵は、今回の調査でこの「回帰」(昭和36年)のことだと判った。敏子は太郎の絵の
モチーフを大きく左右する存在になっていた。さらに三日後の日記には敏子が具体的に色を指示する記述が
あった。
「すごい孤独・憂鬱な絵にしちゃえば」「眼の白いところにブルーをかければ、憂鬱になるよ。やってやろ
うか」・・「いや、眼は白い方がいい。」
こうした敏子の行動をアトリエを訪ねてきた瀬戸内も目撃していた。


この頃の敏子さんの心境はまさに、アルバム「悠悠」で唄われている“運命~やっと天使がこっちを向いた
~”のなかで詠われている主人公のように、激しい情念が様々に揺れ動く世界にあったのだと思えます。
そして、この詩の世界が現実のこととして有るんだということに思い至ると、阿久悠さんはどこでこんな世
界を垣間見たのか、或いは‘かも知れない’という想像だけで作詩されたのか、ともあれ、人の心のひだひ
だまで洞察してしまう繊細な心の持ち主でなければ出来ない技と思えるし、そこがやはり凡人とは違うとこ
ろなのだと納得してしまいます。
こねこ時計 ver.3
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    亜矢姫の唄は芸術だと固く信じているおじんです。
    コンサートなどに参加したい気持ちはやまやまなれど、不如意のことが多いので、これは条件が整い次第となっています。

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