07/21のツイートまとめ

kinsyuu3

NHK「メルトダウン連鎖の真相」を観た。不信感だらけのマスコミ媒体に一つの光明を見た思い。大飯では免震重要棟すら無い状況だから何かあれば福島以上の事故になるリスクもあると感じる。正に政治不信。
07-21 22:30

『瞼の母』よもやま話(3)

嘉永二年(1849)の秋、江戸の柳橋辺りを巡るうち、「料亭茶屋水熊」の女主人の元知人だという夜鷹の
‘おとら’婆さんから、「水熊」の女将‘おはま’が江州から来た人だということを聞かされる。
店に入って、尋ねるのをためらう忠太郎だったが、意を決して土間へと入り込む・・・
ここからは、忠太郎と‘おはま’との遣り取りが最大の見せ場となるのですが、最近BSプレミアムで視た
映画では中村錦之助と小暮実千代が好演していて、とても見応えがありました。特に錦之助さん、時代劇役
者さんらしい面目があって何ともいえない風格とカッコ良さを感じました。こんな雰囲気を出すのは今の俳
優さんには無理だろうな~と一人合点したところでしたが、時代が違いますから仕方ありません。

ここで少し、柳橋の歴史を穿ってみましょう。
柳橋は、かって東京都台東区柳橋に存在した花街で、江戸時代文化年間1804~頃から栄え、安政6年(
1859)には芸妓140~150人にも達するほどの賑わいとなり、さらに後年の昭和3年(1928)には料理
屋、待合合わせて62軒、芸妓366名の大規模を誇ったと言います。芸妓の技芸も優れ新橋演舞場や明治
座にも出演したと説明されています。
昭和39年(1964)の東京オリンピック以後は衰退し、特に隅田川の護岸改修(カミナリ堤防)で景色が遮
断されたのが衰退する大きな原因になったとされています。平成11年には(1999)には最後の料亭「いな
垣」が廃業し、200年近くの歴史に終止符を打ちました。(Web)

柳橋は地理的には隅田川を挟んで両国駅の反対側辺りになると思いますが。少し北に行けば浅草ですし、更
に北に行けば男はおろか女性にまで憧れを持たれたという吉原があったのでしたから、この界隈の往時の賑
わいはどれほどのものだったろうかと、あらぬところに思いが馳せます。

戯曲での舞台となる「料理茶屋水熊」は使用人が6人も居て、身代はかなり大きいように描かれています。
忠太郎はユスリ、騙りと警戒されて'けんもほろろ’の言葉を浴びてしまうのですが、「水熊」の店の格が
しっかりお膳立てされていますから、‘おはま’の物言いが人間の身勝手な本音を語らせていて、これはこ
れで納得できるものがあります。比べて忠太郎の一途で純な心も、身につまされるような迫力をもって伝わ
ってきます。この対比が見事でこの物語を一層に際立たせていると感じます。

歌の『瞼の母』は多数の方が唄っていて、それぞれ持ち味が出ていて興趣があるのですが、何といっても極
め付きは島津亜矢さんが松山(2月BS日本のうた)で唄われたものに尽きると思っています。
亜矢さんの唄では、特に科白の部分で渡世にもまれて育った荒々しさと男らしさが出ていて、泣きたい心は
奥に隠している。この感情の起伏表現が絶妙で、聴く者は完全に同化させられてしまいます。他の方の中に
は女々しく表現される方もいるが、それはちょっと違うでしょうと思ってしまって、引いてしまう。
次に良いのは亜矢さんのCD。松山でのものは時が経過している分だけ表現に深みが増していて、震える
ような凄みを感じます。

さて、大詰第三場は忠太郎が「水熊」を出たあとの荒川堤になっています。
「水熊」に強面で入り婿になりたい下心を持つ、ごろつきの‘素盲の金五郎’と不良浪人'鳥羽田要助’に
荒川堤で待ち伏せされて襲われますが、先ず鳥羽田を切り倒す。このとき、後をおってきた‘おはまとお登
世’の話声を聞くのですが・・・母娘は悄然として去っていきます。
この時の情景が原作では次のようになっています。
 俺あ厭だ――厭だ――厭だ――だれが会ってやるものか。(ひがみと反抗心が募り、母妹の嘆きが却って
痛快に感じられる、しかもうしろ髪ひかれる未練が出る)
 俺あ、こう上下の瞼を合せ、じいッと考えてりゃあ、逢わねえ昔のおッかさんの俤(オモカゲ)が出てくる
んだ――それでいいんだ。(歩く)逢いたくなったら俺あ、眼をつぶろうよ。(永久に母子にあうまじと歩
く)・・・
(このとき、陰に隠れていた金五郎が刀をもって忠太郎を刺さんとするが、それに気が付いた忠太郎は・)
 忠太郎~お前の面あ思い出したぜ。(斬る気になり、考え直す)お前、親は。
 金五郎~(少し呆れて)何だと、親だと、そんなものがあるもんかい。
 忠太郎~子は。
 金五郎~無え。
 忠太郎~(素早く斬り倒し、血を拭い鞘に納め、斜めの径を歩き、母子の去れる方を振り返りかけてやめ
      る)
 船頭歌~降ろが照ろうが、風吹くままよ、東行こうと、西行こと。・・・・・・・・幕

やっぱり、忠太郎は母恋しぐれなんですね~。


ところで、ここで言う荒川堤とはどこかと穿ってみると、
1683年(貞享3年)また一説によれば寛永年間(1622年-1643年)までは下総国と武蔵国の国境であった。
1629年(寛永6年)の荒川瀬替えにより荒川の本流となったが、洪水を防ぐ為に明治末期から昭和初期にか
けて岩淵水門から河口までの荒川放水路が建設され、こちらが現在「荒川」と呼ばれている。
1965年3月24日に出された政令によって荒川放水路が荒川の本流となり、分岐点である岩淵水門より
下流は俗称であった「隅田川」に改称された。(Wikipedia)
上のような記述がありますから、この戯曲での荒川堤は現在の隅田川の堤だと思うのが妥当かと思えます。

以上で、瞼の母よもやま話は終わりにします。

『瞼の母』よもやま話(2)

中山道は日本橋から京都三条まで、69次、135里24丁8間になっていてキロ程では533kmになり
ます。これを昔の旅人は14泊15日の日程で往来したそうですから、1日平均35.5km程になり日に
約7時間ほど歩いたことになりますが、目的や個人によっても違ってくるでしょうから、宿場もたくさんあ
るのでしょう。
江戸時代の主な街道では幕府の公用をこなすための宿駅伝馬制度がしかれていて、宿場は次の宿場まで届け
るために必要な人馬を用意して置く義務を負わされていたそうですが、反面、宿泊のサービスや運賃で収入
を得る行為も許されていて、さらに年貢も免除されていたそうですから利点もありました。宿場の大小はあ
るようですが、それなりに人の往来や物流の結節点としての賑わいもあったことでしょう。

宿場の機能としては下のようなものがありました。(Web)
 問屋場~~~~人馬の手配など宿場の業務
 高札場~~~~幕府からの通達などを掲示
 木戸・見付け~宿場の入り口を示す施設
 本陣~~~~~大名や武士、公家が宿泊休憩した宿泊施設
 脇本陣~~~~大名や武士、公家、空いている時は一般人も利用ができた宿泊施設
 旅籠~~~~~一般旅人用の食事付宿泊施設
 木賃宿~~~~一般旅人用の食事無し宿泊施設
 茶屋~~~~~~お茶や食事などを旅人向けに提供する施設(座って、水だけなら無料)

さて、「番場宿」は京都三条大橋から数えて九つ目、大津からは八番目の宿で現在の米原辺りになります。
資料では、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠10軒、員数808人となっていますから、宿場としては小さい方
です。忠太郎が生まれたという「おきなが屋忠兵衛」は六代続いた旅籠という設定になっています。
長谷川伸さんは江戸から遠く離れたこの地をなぜ忠太郎の生地としたのでしょうか。忠太郎の言葉ではこの
地のことをこのように言っています。
・・・ところは江州阪田の郡、醒ヶ井から南へ一里、磨針峠(すりはりとうげ)の山の宿場で番場という処
がござんす。そこのあっしは。・・・この後、・・・五つの時に縁が切れて二十余年、もうちょっとで満三
十だ。と言わせていますから、探しあぐねる時間や距離は長くて遠いほうが良いとしたのでしょうか。

ところで、江戸時代の「木曽名所図会」には、街道に沿うた番場の宿の町中に“仲時の塚”というのが載っ
ているそうで、この番場は かって六波羅探題であった北条仲時が後醍醐天皇の綸旨を受けた足利尊氏に攻
められて東国へ落ち延びようとする途中、京極(佐々木)道誉に行く手を阻まれて、この辺りの辻堂で仲時
以下432人が集団自刃するという悲惨な出来事が起きています。この時、流れ出た鮮血で辺りは川と化し
たと言われていますが、仲時28歳ほか6歳の子供から60歳の高齢者に至るまでがこの地で果てました。
ここで果てた人の名を記した過去帳が番場近くの「蓮華寺」に残されており国の重要文化財に指定されてい
るそうです。
また、長谷川伸の戯曲「瞼の母」の舞台として知られる番場の忠太郎の故郷として境内に忠太郎地蔵や碑が
立てられているそうです。(滋賀県・観光情報)

しかし、忠太郎は創作上の人物ですから歴史的価値は持ちませんが、長谷川伸が何故この地を忠太郎の生地
としたのか、仲時一党の自刃事件という歴史的大事件と併せ興味が持たれるところです。
ただ、字名で“バンバのチュウタロー”と言えば語呂がいいのは確かですが、それだけでこの地にしたと考
えるのは果たしてどうだろうかと、疑問の余地も大いに残ります。

戯曲の序幕第一場は、嘉永元年(1848)の春、忠太郎が弟分である金町の半次郎の後を追って江戸川沿岸南
寄り、武州南葛飾郡金町にある半次郎の生家、瓦屋惣兵衛の家を訪れるところから始まります。(帝釈天の
辺りでしょうか)。ちなみに半次郎の親分は前年に死んだ笹川繁蔵ということになってるから、平手造酒と
も同じ子分同士ということになりますが、これは余談。この地で飯岡助五郎一家の者に半次郎が襲われるの
を忠太郎が助ける筋書きとなっていますが、ここで一応の始末をつけた後、忠太郎は風の噂に聞いた母親の
消息を訪ねて江戸へと向かいます。

『瞼の母』よもやま話(1)

長谷川伸の代表作の一つである『瞼の母』は昭和5年(1930)作者46歳の時に書かれた作品で、最初発表
されたのは村松梢風の個人雑誌「騒人」であったという。翌昭和6年3月には明治座で守田勘彌主演で上演
されたのが好評を博し、その後役者や劇場を変えてたびたび上演されて今日に至っている。
現在でも歌や芝居に取り上げられているが、その底に流れているテーマ、親子の情や人間愛は誰しもに通じ
る普遍的なものであるから、人々は共感しいつまでも古くならずに愛されているのだと思う。

長谷川伸は明治17年(1884)3月15日横浜に生まれたが、三歳の時に父の放蕩がもとで、母が家を出る
ことになって生き別れとなる。その後消息は途絶えていたが47年後の昭和8年(1933)にこの戯曲が評判
になったことにより、母との再会を果たすことが出来たのだという。この時、生母こう71歳、伸二郎(実
名)49歳だった。
こんなめぐり合わせはまさに劇的であるが、幼いころから生母に対する憧憬はずっと持ち続けていたに違い
ないから、そんな我が身の境遇がこの戯曲を書かせる動機になったのかも知れないと思いたくなる。
特に料理茶屋水熊での母子対面場面での忠太郎のふりしぼるような科白は、見事に子供心を表していて身に
つまされる。また、作者も自身の身の上に引替えて夢と現実を往ったり来たりする心をどのように始末をつ
けて表現するか、相当に苦心されたに違いないと思うのだが、読み、見聞きするものにとってはあの場面が
圧巻だ。

この『瞼の母』、歌謡界では多くの歌手の方が歌われていてPC上でも見聞きすることができるが、CDが
発売されていて世間に広く知られているのは中村美律子さん(1991.8.Re.)のものや島津亜矢さん
(1992.2.Re.)のものであろう。リリース順に言えば岡田美鈴さん(1991.5.Re.)のものもあるらしいが
、あまり知られていない。
しかし、さらに古くは浪曲師の京山幸枝若(初代=1926.8.10~1991.6.24)さんがおられて、この歌や浪曲
をものにしておられるから、元歌はこの京山さんであろう。作曲は沢しげとさん=村沢良介さんである。
作詞は坂口ふみ緒さん(男性)であるが、歌詞も見事だし忠太郎に語らせる科白も原作をかなり脚色してい
て、これはこれで見事な言い回しになっていると感じる。
考えてみれば、原本が同じでも脚色家や演出家や演じ手(歌い手)が変われば自ずと受け取る感動は違った
ものになる筈で、ここのところが腕のみせどころとなるのだろうから、異本があってもうなずける。

さて、NHK「BS日本のうた」では『瞼の母』を
「長編歌謡浪曲 瞼の母」と題して2008年9月20、21日に放送した。(収録は呉市2008.8.28)
 原作  長谷川 伸   
 作詞  坂口ふみ緒 
 作曲  沢 しげと 
 節付け 春野百合子
 出演  島津亜矢(忠太郎) 中村美律子(母~おはま、その娘~お登世)

 ここでの春野百合子さんは2代目(当代)さんでしょう。中村美律子さんは歌手になる前はこの方に浪曲
を師事されたといいますから、ここでの歌謡節は師匠直伝の本格的なものでした。
 また、島津亜矢さんは忠太郎なりきりの長科白を涙を溜めて大熱演されると共に『瞼の母』も熱唱。
 お二人の熱演は全篇で19分にも亘る感動的なものとなりましたが、「BS日本のうた」のスペシャルス
テージでの長編歌謡浪曲は史上空前のものとなり、長く記憶にの残るものとなりました。
 今後、再演されるかどうか判りませんが、せめて再放送を期待したいものです。


それではここで、島津亜矢さんの長科白の一部を再現してみましょう。
忠太郎が'おはま’に対してする、積年の思いの丈を込めた最後の独白です、。

「おかみさん、お前さん今あっしのことをゆすりと言いなすったけ、
 
 冗談言っちゃいけねえぜ、ゆすりでもなけりゃ、かたりでもでもねぇ、

 見ておくんなせえこの百両、博打で貯めた金じゃねえ、たずねたずねたおっ母さん、

 無事な暮らしをしてりゃいいが、もしも貧しい所帯なら、せめて何かの足しにでもと、

 汗水流して働いて貯めた金の百両だ、渡る渡世の立て引きで、丁と張ったら半と出て、

 半と張ったら丁と出る・・・すっからかんになったときゃぁ、何度この金に手が掛かったか判らねえ、

 いやいや、そうじゃねえぇそうじゃねえぇ、おっ母さんにめぐり合うまでは、

 指一本ふれちゃならねえぇと、温め続けてきた金だが、それも役にゃぁ立たなかった、

 こんな薄情な人と知っていたら、俺らあぁ訪ねてくるんじゃなかった、

 こうして瞼をつぶったら、いつも優しいおっ母さんの面影が浮かんでくるやつを、

 わざわざ骨おって消しちまった・・・

 おかみさん、くれぐれも躰に気をつけておくんねせえぇ・・・ご免なすって・・・」

こうして、忠太郎は「水熊」を出ていきます。


この後、おはまとお登世が忠太郎の後を追いその姿を探し求めるのですが、母娘の幸せにじゃまとなると思
う忠太郎は呼び声を聞きつつも、自分を殺して去って行くのです。心の中でおっ母さんと叫びつつ・・・
これは、最後のわかれの場面のところですが、亜矢さんの迫真の演技は中村さんも舌を巻く程で、終演後の
言葉が全てを物語っていました。
島津亜矢さんのスペシャルステージは何時もなんらかの特別な印象と感動を残してくれるのですが、この時
も、まさに会場内を興奮のルツボと化すような演技と歌を披露してくれたのでした。

下のサイトでは京山幸枝若さんと春野百合子さんによる歌謡浪曲を聞く事が出来ます。おそらく今回の舞台
のベースとなったものではないかと思われます。

http://www.youtube.com/watch?v=Dtsrn5AFins
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    Author:ふうてんの猫
    亜矢姫の唄は芸術だと固く信じているおじんです。
    コンサートなどに参加したい気持ちはやまやまなれど、不如意のことが多いので、これは条件が整い次第となっています。

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