温故知新

NHKのBSプレミアムには興味深い番組がとても多いのですが、先月視聴したのは関口知宏のヨーロッパ鉄道の旅、トルコ、ギリシャ編でした。
日本全国のJRの路線をすべて乗りつくした関口知宏さん。2005年からヨーロッパ各地で鉄道の旅をしています。2005年ドイツ、2006年イギリス、スペイン、トルコ、ギリシャと旅をするのですが、この後、中国鉄道大紀行の放送は2007年4月から11月にかけてでした。

今回視聴したのはトルコからギリシャへの旅。もともと放送されたのは2006年10月16日だったのですが、私が見たのは今年の11月4日。

トルコの首都アンカラとイスタンブールの中間地点の町エスキシェヒルに関口さんが降り立ちます。エスキシェヒルとは古い町と言う意味で3000年の歴史があるそうです。
この町のライブハウス入ってみることにした関口さんは古い楽器で合奏する若者たちと交流します。いまトルコでは伝統的な民謡や楽器が若者によって見直されているといいます。ここでの関口さんが述べる感想が‘温故知新’でした。
「トルコに古きをたずねて新しきを知る温故知新の動き有り。温故はただ昔を懐かしむこととは違う、知新は他人に認められたくて流行の先端を行こうとしていることとは違う。真に新しいものを生み出す人は心の奥から湧き起るうずきに従っているだけである。バンドの人達がそんなことを歌っているような気がしました」と、~~何かしら心に響く名言だと思えるのですが、如何でしょうか。

もちろん、日本にも色々の分野で意欲的に取り組んでいる若者も多くおられ、正に、温故知新を地でいっているような方も多い事でしょう。そういった若者の事を思う時、この国の行く末も芸術、文化、社会、政治その他ににおいても頼もしい未来があると思えてきます。

この1年、島津亜矢さんのことを中心に据えつつ拙いブログを綴ってきましたが、こんなところへも忘れずにご訪問下さった皆さまに厚くお礼を申し上げます。
来るべき新しい年が皆さまにとって幸せ多い年でありますよう、また、島津亜矢さんにとってもますます実り多い年となりますように願っております。 それでは、来年もまたよろしくお願い致します。

NHK「BS歴史館」に見る、忠臣蔵

2月13日放送の「BS歴史館 妻よ!子よ!家族をめぐる忠臣蔵」
                  ~大石内蔵助・究極の選択~を見ました。

歴史とは現在と過去との対話である(E・H・カー)。このフレーズをサブ命題とする「BS歴史館」を偶
に視聴しています。今回は忠臣蔵、なかんずく浪士達と家族との絆を掘り下げたものでした。

5万石の赤穂藩、内蔵助は藩主内匠頭に次ぐ筆頭家老として300人余りの家臣団を纏める実力者でした。
元禄14年3月14日、殿中刃傷事件が勃発。幕府の裁定で内匠頭は即日切腹、浅野家取りつぶし、1か月
後の赤穂城の明け渡しを迫られます。
つまり、藩主の不祥事で赤穂藩は倒産。大石はじめ家臣全員失業となり家族諸共路頭に迷うことになった。
内蔵助は藩士たちを集め緊急会議を行います。結論は城明け渡し、・・大学様の面目もある、謹慎が解かれ
人前が成りたつよう上野介になんらかの処罰がなければこのままではおかない、今回のことは内蔵助に任せ
て欲しい。・・元禄14年4月19日 赤穂城明け渡し。

内匠頭の切腹は内蔵助にとって晴天の霹靂だったでしょう。
江戸藩邸の明け渡し、上屋敷と二つの下屋敷の全部を空にして幕府に返さなければならない。国許では藩札
の回収をしなければならない。
4月19日が城明け渡しの日であるが、その前の4月15日までに家臣全員城下町から退去しなければなら
ない。内蔵助は親類に新居探しを手紙で依頼しているのは切腹の知らせが届いた2日後の3月21日のこと
でした。・・すでにご承知のように赤穂浅野家が断絶になります。つきましては山科、山崎あたりで山裾の
良い場所がないでしょうか、十四、五人が出入りすることになるでしょう、伏見、大津あたりでも結構・・
こんな依頼をしつつ、残務整理~どんな村があって石高、年貢、塩の運上金等がいか程あるのか、引き継ぎ
書類作成~こんな作業を指揮しなければなりません。

赤穂市立歴史博物館に、内蔵助が藩士との間で交わした「ご神文」(盟約書、誓約書、起請文の類)が残さ
れています。
・・このたびの相談の御主意を間違いなく申し合わせ、本意を達すること一義については他人はもちろん親
子、兄弟、妻子であっても決して伝えないこと。これに反した者は日の本国中の神仏の罰を受ける。・・
ご主意、本意、一義など抽象的な言葉が並び盟約の具体的内容は一言も書かれていなくて、政治的配慮で書
かれている。藩士300余名の内神文に署名したのは120名ほどでしたが、この後、諸々の事情で脱盟す
るものが多く、結局最終的に討ち入りに加わった者は47名。

討ち入った浪士たちは切腹して果てましたが、主君のために家族を犠牲にした浪士たち。彼らは討ち入り直
前まで忠義を貫くか、家族の為に生きる道を探るか葛藤し続けていたのです。
内入り直前の手紙には妻や子の行く末を案じる痛切な思いが!大石神社には浪士が討ち入り前、家族に送っ
た貴重な手紙が残されています。

木村岡右衛門
・・娘は、堅実な家に養子にやってください、あなた(妻)は私の四十九日が終わったら早々に再婚してく
ださい。

萱野三平~討ち入りか家族か、終には自ら命を絶ってしまうものも!
・・忠義と孝行の間で、どうしていいのかわからなくなりました。悩んだ末に自殺します。・・
神文を交わし親子の間柄でも口外しなと誓ったため、忠義と孝行の間でどうしていいのかわからなくなり、
悩んだ末に自殺します。

大高源五~母への手紙。年老いた母に宛てた手紙は読みやすい文字で書かれ、母一人残していく悲痛な思い
がこもります。
・・いまさら申し上げるべきこともございませんが、これが最後の手紙です。本当に本当に先立ちます不孝
の罪は後生も恐ろしく存じますが、私事で捨てる命ではございませんので、深く御嘆きにならず、私のため
に御念仏を唱えていただくよう頼みます。

神崎与五郎~母親の面倒を妻に託す手紙からは夫婦の深い愛情が伝わってきます。
・・侍の妻たる者が、夫のことばかり考えて嘆くというようなことはよくないので、よくよく気をしっかり
と持って心を取り直してください。私も、あなたのことが恋しいけれども、これは人間としての務めなので
す。・・
浪士たちが残した手紙からは忠義だけでは語りつくせない家族への深い思いが浮かび上がってきます。

思えば、靖国神社の境内に特攻隊員が家族に宛てた手紙が掲示されているのを目にするときも、嗚咽がこみ
あげてくるのを抑えきれなくなりますが、家族への思いや絆の深さは時代を問わずに不変のものなのだと、
改めて深く考えさせられます。やっぱり生身の人間ですからねえ。

この番組では、生活者としての武士の在り方というものも問うてみたい。という事がテーマとしてあったよ
うに思いますが、コメンテーターの話としては、元禄時代は現在の家族構成や感情に近寄った時代であり、
外へ出たら所属組織を家のように見て勤めを果たしていくという時代であり、それが少なくとも昭和の時代
までは連綿と続いてきたけれど、平成の今は世相が変わってきたように思うと話すのは、磯田准教授。


必死でお家再興を求めた内蔵助であったが、吉良上野介の隠居が決まった直後の元禄14年12月15日 
長男 松之亟を元服させ、名を大石主税吉金と改める。あだ討ちへの参加を示し、同士たちへのアピールと
した。討ち入りへの覚悟と家族との別れも行い、元禄15年4月15日妻理玖と長女くうを実家の豊岡に帰
えした。この時、理玖のお腹の中には赤ん坊がいた。6月には次男吉千代を出家させた。討ち入り後の処分
が及ばないよう配慮したと言われる。そして7月5日理玖は三男を無事出産 大三郎と名付ける。内蔵助は
我が子の顔を見ることは永久にありませんでした。

元禄15年7月18日浅野大学が広島の浅野本家に預かりの身となったため、大学を立て浅野家最高を願っ
た内蔵助の望みは潰えた。そして7月28日京都円山でで開かれた会議で、ついに内蔵助は討ち入りを表明
する。
元禄15年10月1日、内蔵助は豊岡にいる妻の父親に離縁状を送る。
・・近く田舎に引っ込み滞留します。それについて妻の儀そのまま指しおくことも心落ち着かないので一応
妻をお返しいたします。しかし妻に不届きがあってのことではなく拙者一分の存じよりのためです。・・
事件を起こしたりすると、家族連帯或いは一族連帯の責任をとらなければならないということになるので、
これは偽装離婚というべきもので家を守り或いは家族を守るための離縁であると言えると説明されていまし
た。

『浅野家家来口上書』討ち入りの際、吉良邸の門前に掲げられ、その後大目付の屋敷に提出され、また幕閣
にも読まれた文章である。そこには討ち入りを決行した理由や目的が克明に書かれている。
・・上野介を討ち留めることができなかった内匠頭の心底を考えると家臣には忍びがたいものがある。不倶
戴天の敵を討つために吉良邸に討ち入る。・・
内蔵助にとって討ち入りを正当化することは吉良の首を取ることと同様に重要なことであった。残っている
人達の名誉を獲得する、また討ち入った人たちの家族たちが再生活できる環境を整えていく。
かくして、元禄15年(1702)年12月14日、47人にて討ち入りを決行する。
討ち入りから2か月足らず、元禄16年2月4日、大石内蔵助ら46名が切腹。大石内蔵助享年45歳。

京都、円山会議の三日前の元禄15年7月25日、内蔵助は里帰りしていた妻の理玖に『最後の手紙』を出
していた。
・・・私もこちらで支度次第に父子(主税)で江戸へ下向するつもりなので左様御心得いただきたい、今は
八坂神社の祇園踊りの時期なので私も主税もを連れて見に行ってきた、なかなかおもしろいものだった。
伏見の有名な踊りも見て大変驚くほどのものだった。あなたへぜひ見せたいものだと心の底から思ったこと
だ。・・・
さらに手紙にはまだ見ぬ息子への思いが綴られている。
・・・あなたが名付けた赤子の名前、大三郎はとてもいい名前だ、ぜひ一目会いたいものだ・・・大三郎は
きっと幸せ者である。後々よい所へ養子に出してやってほしい・・・
誕生したばかりの息子大三郎、結局内蔵助は一度も会うことなくこの世を去った。

それから10年、正徳3(1713)年、大三郎が浅野本家の広島藩に1500石という破格の待遇で召し抱え
られることになった。大石家の再興です。1500石は筆頭家老だった内蔵助とちょうど同じ石高でした。

理玖は亡き内蔵助への思いも込めて手紙に次のように書き留めています。
・・・年月の憂きことも忘れて喜んでおります。ひとしおひとしおありがたき幸せ、これも内蔵助のおかげ
で本人も本望でありましょう。とかく人は息災命ながらえ候こと肝要に御座候・・・

「何を大切に人は生きるのか?ということを考えさせてもらう物語だと思っている」と、話すのは磯田准教
授でしたが、視聴者にとってもとても示唆に富んだ番組の内容であり、とても楽しめた番組でした。
内蔵助の透徹した物の考え方、家臣への人間愛、家族への思いやり、物事を成し遂げる沈着な判断力と行動
力、各方面への気配り、人を束ね動かす力量、これらをあまねく兼ね備えた人が内蔵助でした。
この事件がなければ、内蔵助という方は藩にとって大功績を挙げ得た人になったのだろう、と言うのがコメ
ンテーターの方々の一致した意見でした。

この放送の翌日、「忠臣蔵 四十七人の刺客」という高倉健主演映画が放送されましたが、内容的には「B
S歴史館」で語られた大石内蔵助の人物像には程遠く、全体に冗漫で面白味に欠けていました。映画より歴
史研究番組の方が面白いという妙な体験をしてしまいました。

司会:渡辺真理 
コメンテーター:谷口眞子(早稲田大学 準教授)、磯田道史(静岡文化芸術大学准教授)
        中村吉右衛門(歌舞伎俳優) 

ところで、島津亜矢さんは三波春夫さんの歌謡浪曲を五曲カバーされていますが、内四曲は忠臣蔵物です。
アルバム「BS日本のうた」では、第1集に元禄名槍譜俵星玄蕃、第2集に豪商一代紀伊国屋文左衛門、
第3集に元禄花の兄弟赤垣源蔵、第4集に元禄桜吹雪決闘高田の馬場、第5集に元禄男の友情立花左近、が
それぞれ収録されていますが、兄弟の絆を描いた曲は赤垣源蔵です。別れの心情が切々と語られます。
・・・兄の屋敷を立出でる 一足歩いて立ち止まり、二足歩いて振り返り 此れが別れか見納めか・・・

この曲を下で、聴かせてもらうことにしましょう。
http://gennyou.blog.fc2.com/blog-entry-82.html

藤十郎 と お梶 (2)

小説の注解によれば、元禄時代は1688-1704年。五代将軍徳川綱吉の時代で、幕藩体制の基礎が固まり商品
経済が発展、町人文化が発達した時代で、特に俳諧・浮世草子・歌舞伎など文芸が盛んになり、松尾芭蕉・
井原西鶴・近松門左衛門らが活躍した時代とあります。
「藤十郎の恋」の時代背景は元禄という年号が十年あまりを経過したころとされているから、まさにこの爛
熟の文化を生み出したこの時代の京都を舞台としています。
・・・ところは京都、「江戸へ下る西国大名の行列が毎日のように都の街々を過ぎ、三条の旅宿に二三日逗
留しては江戸へ下っていくし、東国から、九州四国から、また越路の端からも本山参りの善男善女の群れが
、ぞろぞろと都をさして続いた。」・・・との表現があるあるから、この辺りの賑わいは相当なものであっ
たのでしょう。京都四条中島の都万太夫座の坂田藤十郎と、山下半左衛門座の東から下ってきている中村七
三郎との芸の競争は江戸と京の芸を競うものとして人々にはやされていました。

そんな中、半左衛門座は中村七三郎の芸が人気を博し予定を超えて狂言を打ち続けるのです。こうなると三
ヶ津(江戸・京・大阪)総芸頭とまで、讃えられた坂田藤十郎は傾城買(けいせいかい)の上手として、や
つしの名人として天下無敵の名をほしいままにしていたのであるが、こんな状況を看過できる筈もなく、心
の葛藤を生じさせることになるのでした。

そこで彼は、大阪の近松門左衛門に急飛脚を飛ばして狂言の戯作を頼むのであるが、与えられた芸題が『大
経師昔暦』・・・京の人々の、記憶にはまだ新しい室町通の大経師の女房おさんが、手代茂右衛門(茂兵衛
)と不義をして、粟田口に刑死するまでの命がけの恋の狂言であった。・・・
浮ついた陽気なたわいもない傾城買の濡れ事とは違う、命を賭しての色事であるが故に藤十郎は芸の苦心に
思い悩むこととなります。

・・・藤十郎は四十を超えた今日までには幾十人の女を知ったか分からない。彼の姿絵を、床の下に敷きな
がら焦がれ死んだ娘や、彼に対する恋の叶わぬ悲しみから、清水の舞台から身を投げた女さえない事はない
。が、こうした生活に拘わらず、天性律儀な藤十郎は、若い時から、不義非道な色事には、一指をだに染め
ることをしなかった。・・・
この辺りの表現からも、後にお梶を恋に狂わせる藤十郎の魅力というものが読み取れるし、今も昔も男女の
恋というものは成就の如何を問わず、時にこんなにも激しいものがあるのだということを知っておくことが
、この小説を理解する上で重要なファクターとなるのだと思えます。

・・・傾城買の経緯なれば、どんなに微妙にでも、演じ得るという自信を持った藤十郎も、人妻との呪われ
た悪魔的な、道ならぬ然し懸命な必死の恋を、舞台の上にどう演活(しいか)してよいかは、ほとほと思案
の及ばぬところであった。・・・
・・・それは、二月のある宵であった。四条中東の京の端、鴨川の流れ近く瀬鳴りの音が、手に取って聞こ
えるような茶屋宗清の大広間で、万太夫座の弥生狂言の顔つなぎ宴が開かれていた。・・・

騒々しい酒宴の席から離れ座敷に身を脱れれば、芸の苦心が再びひしひしと胸に迫って来る。明日からは稽
古が始まる。肝心要の茂右衛門の行き方が、定(きま)らいでは相手のおさんも、その他の人々もどう動い
てよいか、思案の仕様もないことになる。・・・そんな藤十郎の居場所にこの家の女主人お梶が入ってきて
双方思いがけない出会いをすることになる。

お梶はいきなり部屋に入った粗相を詫びながらも、冷えるこの部屋にいる藤十郎に掛け物を取り出して掛け
、部屋を出ていこうとするのだが~、
・・・藤十郎のお梶を見詰める眸が、異常な興奮で、もえ始めたのは無論である。人妻であるという道徳的
な柵が取り払われて、その古木が却って彼の欲情を培う、薪木として投ぜられたようである。彼は、娘や後
家や歌妓や遊女などに相対した時には、かつふつ(全く)懐いた事のないような、不思議な物狂わしい情熱
が、彼の心と身体とを、沸々燃やし始めたのである。・・・

さて、ここまでは制御のし難い感情が沸上がる様子が書かれているから、以前から思い続けていたものでな
いにしろ、この時の心情は心底からのものであろう、菊池寛はこの場面で藤十郎を人間的感情のある役者に
仕立てているのだと思えます。
ここからが、名文で綴られるこの小説の山場となるのですが、お梶に対して不思議な物狂わしい情熱をその
理性で抑えつつ、お梶の気持ちを燃え立たせるような言葉をつぎつぎに吐露していくのである。これらの言
葉がお梶を、自ら行燈の火を吹き消してしまい藤十郎を受け入れる覚悟をさせてしまうほどに、感情が溺れ
てしまうのだが・・、男はその傍を影のようにすりぬけて母屋に向って足速く走りさってしまう。
~この辺のところは迫真の文章が綴られていますが、省略します。

・・・闇の中に取残されたお梶は、人間の女性が受けた最も皮肉な残酷な辱めを受けて、闇の中に石のよう
に突っ立っていた。悪戯としては命取りの悪戯であった。侮辱としては、この世に二つとはあるまじい侮辱
であった。が、お梶は、藤十郎からこれ程の悪戯や侮辱を受くる理由を、どうしても考え出せないのに苦し
んだ。それと共に、この恐ろしい誘惑の為に、自分の操を捨てようとした――否、殆ど捨ててしまった罪の
恐ろしさに、彼女は腸(はらわた)をずたずたに切られるようであった。・・・

かくして、お梶は死への覚悟を決めてしまうのだが、・・・・・・・そして、藤十郎の狂言は成功し評判を
呼ぶこととなるのだが、果たして、藤十郎の心中は如何に、芸に生きるための生真面目さが生じさせた齟齬
であったと思いたいのだが、何れにしてもお梶の立つ瀬は無かったのかも知れない。
お梶の心中こそ哀れであったと思うのです。


ついでに、「おさん」に関連するすることも少し書き足しておきます。
【浮世草子】江戸時代の小説の一種で、井原西鶴の「好色一代男」によって確立され、以後80年間上方を
中心として行われた町人文学とされている。西鶴の浮世草子に「好色五人女」があり、五つの物語がある。
○姿姫路清十郎物語(お夏清十郎)
○情をいれし樽谷ものかたり(樽谷おせん)
○中段に見る暦屋物語(おさん茂兵衛)
○恋草からげし八百屋物語(八百屋お七)
○恋の山源五兵衛物語(おまん源五兵衛)

あとで、近松門左衛門が「大経師昔暦」を著し人形浄瑠璃として1715年に大阪竹本座で初演されたとあるが
、西鶴物も近松物も大経師家の女房おさんと手代茂兵衛との実際にあった密通事件を題材としており、元に
なる話はひとつである。
なお、二人の生年と没年は下記。
井原西鶴   1642(寛永19年)~1693(元禄6年 8月10日)
近松門左衛門 1653(承応 2年)~1725(享保9年11月22日)

溝口健二監督の映画「近松物語」(1954年大映配給)では、題名通り近松門左衛門の「大経師昔暦」の映画
化となっているが、実際には西鶴物を用いるよう脚本の依田義賢氏に依頼したということがWebに見えま
す。この映画、芸達者の方々が多く出演されていて、とても見応えがありました。名作だと思います。

亜矢姫の歌「おさん」は荒尾からのBS日本のうたで聴かせてもらったのが最初でしたが、それ以後は生でも、
TVラジオ等でも聴かせてもらった記憶がありません。
名作物だけでも現在38曲もありますし、この12月で40曲にも膨れ上がりますからコンサート等で取り
上げられることは、なかなか巡ってこないかも知れません。
この「おさん」が収録されたリサイタルのビデオは過去はテープしか無かったように思いますが、ようやく
今年4月に「リサイタル2000挑む!21世紀へ」がDVD化されて発売されましたので、ファンの方々
は既に楽しまれたことでしょう。
私の場合は、まだ包装の封切もせずに手許に置いてあり、暮れ正月辺りの楽しみにしようと思っています。
今、収録曲等を眺めていているのですが、シクラメンのかほり、伊勢佐木町ブルース、イヨマンテの夜、
男・・・新門辰五郎、断腸のミアリ峠、熱き心に、等があって期待が膨らみます。興味の湧かない赤白なん
ぞより、余程楽しみ大きいというものです。

藤十郎 と お梶 (1)

島津亜矢さんの名作歌謡劇場シリーズ、「お梶」(C/W沓掛時次郎)が発売されたのは1993年9月21日だ
からおよそ20年前のことになります。ちなみに、「おさん」はその7年後の2000年9月21日。(資料は
ファンサイト 演歌桜・亜矢桜から)
若くしてこのような大作を物にしている事を思うと、島津亜矢という歌手が如何に芸術的資質を備えている
方であるかが解りますし、また、世間の多くの方々がその芸に心酔していることが色々の情報から窺えるの
ですが、それが至極当然のことと理解できるのです。

さて、「お梶」は2010年のデビュー25周年記念リサイタルで「長編名作歌謡劇場」として上演された
のは新しいところですが、これが再演と聞いたように思いますから、それ以前にも上演されているのでしょ
う。しかしそれが何時であったかはファン歴の浅い私には説明する資料の持ち合わせがありません。

今回のリサイタルでの島津亜矢さんは、藤十郎とお梶の二役をそれぞれの人物に成りきって見事に演じ分け
られ、その舞台姿が断片的に脳裏に浮かんでくるのですが、出版された歌と違って物語の構成要素が舞台上
での一度きりの語りの部分でしか説明されない部分もあり、観る方はややもすると全てに気持ちを集中でき
ずに、見逃し聞き逃しを生じさせてしまう場合があります。
今回の演出も原作をほぼ忠実に踏襲していたと思いますが、これもリサイタルのパンフを見て、さらに原作
を読んで分かる始末。
藤十郎が演ずる役所が「大経師昔暦」の茂兵衛であったと解るのも後の話、それほどに私の場合は何に見惚
れていたのか或いは聞き惚れていたのか注意力が行き届いていなかった。

「お梶」のことをテーマにしようと思うのに何故「おさん」のことも持ち出すのかと言えば、菊池寛の「藤
十郎の恋」を読むまでは藤十郎が芸に苦心を重ねた役所が‘おさん茂兵衛’物語の中心人物である茂右衛門
(茂兵衛)とされているからですが、さらにDVDのパンフを見れば、亜矢姫も藤十郎役の独白でちゃんと
大経師昔暦と語っている。こんなことを理解せずに観劇していたのだから、何をか言わんやである。

「藤十郎の恋」と言えば、芸の為に‘偽りの恋’を人妻に仕掛けたというのが話の中核を成すのですが、果
たしてその真実とは?もう少し、ほじくって見ることにします。

「お梶」菊池寛原作 藤十郎の恋より
作詞:吉田博司 補作詞:村沢良介 作曲:村沢良介 編曲:池田孝春

噛んだ唇 したたり落ちる  血で書く名前は・・・
おんな心をもてあそび    奈落へおとして ・・・・
憎いの 憎いの       憎い恋しい ・・・

(セリフ)
恋の成就が叶わぬならば この黒髪をプッツリ切って 冥土の旅へ旅支度
悔しさも 哀しさも 憎しみも今は消えました 
あゝ きれいやなァ 祇園の町の宵明り 藤さま 梶はおんなに戻ります


浮世舞台の からくりなんか 忘れてあなたと ・・・・
墨絵ぼかしの 夕暮れに   人目しのんだ 屋形船
愛しい 愛しい       おんな泣かせの ・・・

(セリフ)
ふたつに重ねて 切り刻まれて あの世とやらに堕ちましょう
嬉しい 嬉しい 藤さまのあの夜の言葉 
思い出しても 耳朶まで 火照って 狂いそうでございます 
おんなの真実は 阿修羅の流れの様でございます
幾度この世に生まれて来ても 梶はあなたの 女でいとうございます


命下さい わたしにすべて  地獄に落ちても ・・・・・
お梶あなたに ついてゆく  おんな哀しい ・・・
逢いたい 逢いたい     せめて夢でも ・・・

亜矢姫が歌う「お梶」にあるように「人目しのんだ 屋形船」と唄われるような場面があったのだろうか、
原作にはこの様な情景はひとつも見当たらないのですが、作詞家は見事な表現力と構成力でこの世界を独自
に創作し描き切ってしまう。ここが芸術家といわれる所以だろうし、唄って表現する亜矢姫しかり、作曲家
しかり、編曲者しかりだと、芸術の奥深さに今更ながらに感じ入るのです。

そこで、菊池寛の小説「藤十郎の恋」をネタにして、その恋とはどのようなものであったのか、少しく考え
てみたいと思います。藤十郎が取り組む新しい狂言の材は、大阪にいる近松門左衛門に依頼したとされてい
る「大経師昔暦」。かくして藤十郎は、お梶をおさんに見立て、自身は茂兵衛(茂右衛門)となって芸に工
夫を凝らすことになるのですが、この経緯のなかで、お梶の激しい恋情をふみにじってしまうことになる。
果たして藤十郎は初めから偽りの恋を仕掛けたのだろうか。
・・小説ではこの「大経師昔暦」を題材としたことにされているが、実際は時代設定にズレがあるらしく、
それを指摘された菊池寛は芸術的効果を挙げる場合はそれも創作家の特権であると述べたという。・・

『耳塵集』(にじんしゅう・享保十二(1727)年刊)=歌舞伎役者の金子吉左衛門が書き留めた古人役者の説
を纏めたもので初代坂田藤十郎の芸談が収録されていて、この中にこの話があるという。『坂田藤十郎狂言
の工風に祇園の茶屋の花車(茶屋の女主人)に恋をしかけ、なびくと見て逃れ去る。世人さすがは名人の心
がけ哉と感嘆せり』
そして、菊池寛自身が執筆の動機および題材について次のように述べているという。
「私はこれを読んだ時、いつわって恋をしかけられた花車に、満腔の同情を寄せた。そんな目に会っては、
堪らないと、思った。女として、そんな目に会っては、堪らないと思った。又、そんな事をする藤十郎の残
酷さを憎んだ。又それを名人の心得だと云って感心している当時の人情に反感を抱いた。」・・・・・本の
巻末にこんな注解がありますから、菊池寛は相当なフェミニストで、やはり、根底、人間としての優しさを
持った人だったと感じられます。

だから、この小説に描かれる藤十郎は芸のために本当に偽りの恋を仕掛けたのだろうか、いや、そうであっ
てはあまりに冷徹すぎる、味気なさすぎる、少しは人間の情を絡ませて欲しいというのが俗人の感じるとこ
ろだと思うのですが、果たして小説ではどんな描き方がされているのだろうかと、思いがそちらの方まで動
いていくのです。

次回のスレに続けます。
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    亜矢姫の唄は芸術だと固く信じているおじんです。
    コンサートなどに参加したい気持ちはやまやまなれど、不如意のことが多いので、これは条件が整い次第となっています。

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