王城の護衛者

司馬遼太郎の「王城の護衛者」では、松平容保について、さらに興味深い逸話が書かれているので、これを
拾いながらもう少し話を進めてみることにする。
・・・京都守護職松平容保が藩兵千人をひきいて京に入ったのは文久2年(1862)12月24日であった。
この時京都所司代牧野忠恭ら在京の幕府高官が三条大橋の東詰めまで出て、容保を迎えた。・・・と、書い
ている。
ちなみに、この牧野忠恭は時の長岡藩七万四千石の藩主で、同じ年の8月に京都所司代を命ぜられ9月29
日に京都の役宅に入ったとされているから、容保の着任時期との差はほんの数か月である。
京都における治安維持にはこれら徳川の譜代大名が務めたことになるが、この時期頼りにされたのは、やは
り譜代しかなかったのであろう。
この長岡では会津戦争の少し前に、かの有名な河井継之助が指揮する長岡藩軍と官軍による北越戦争が起き
ているが、この戦争については長岡藩士や市街の人々、また家屋の被害が甚大であったため、継之助が戦争
の蓋然性を開戦の方向に導いたとして人々の恨みを買った面がある。
継之助の墓碑が出来たとき墓石に鞭を加えにくる者が絶えなかったといわれ、後にその墓碑まで打ち砕かれ
ていたというが、この人もまた時代の風雲児だったと言えるのだと思う。
河井継之助については司馬さんの小説「峠」が有名であるが、さらに別の小説では継之助のことを次のよう
に書いている。
・・英雄というのは、時と置きどころを天が誤ると、天災のような害をすることがあるらしい。・・・と

話がそれた、
容保が宮中に参内し孝明帝に拝謁したのは文久3年正月二日であった。孝明帝はこのとき、容保に緋の御衣
を下賜された。天使の御衣を武家に下賜されるということは先例にないことであったらしいから、この帝に
対する容保の尊崇の念はとても強いものがあった。
この頃、長州藩は攘夷派公家の三条実美らを抱き込んで宮廷革命をおこし、さらにそれを軍事革命にもって
いき、一挙に京都政権を樹立しようと企てていたとされていて、朝旨、朝命、勅諚というものが天使の意見
とかかわりなく出され、濫発されたというから、孝明帝の立場は悲惨だったらしい。
孝明帝は骨の髄からの攘夷家であったと言われているものの一方では熱烈な佐幕家でもあったので、この帝
における攘夷は単に異民族をきらい毛嫌いするほどのものであったらしい。だから、長州派が画策する思想
とは相容れないものがあった。帝は重量感のある保守的思考法を好まれ、ゆるぎのない遵法観念の持ち主で
あったので、武威をもって治安にあたる容保を内心強く頼りにされた。

文久3年3月に上洛していた将軍家茂が6月9日、にわかに京を発し大阪を経て海路江戸へ帰ってしまうの
だが、これをとらえて過激派の公家たちは「不臣の行為」であるとして騒ぎ、帝のお言葉と称する勅諚が下
された。将軍をひきとめて来いとの御沙汰書である。これは実美らの同士が語らい多数の賛同を得て、案を
決定し「群臣協議の結果でござりまする」と、関白を通じて報告する。帝は慣例上これをはばむことは出来
なかった。要するに、容保を京から体よく追い出し、その間に革命を成し遂げようとの魂胆である。

容保が京を留守にすれば、どういう事態がおこるか、京は天皇を擁する長州人に占領され、幕府は瞬時に崩
壊するだろう。が、・・・勅諚にはそむけない。この上は御沙汰書の取り消しを請うしかないので、家臣を
手分けして公家衆のもとに走らせ哀訴した。しかし、長州派の公家も多くこの運動はすべて不調に終わった
。窮地に陥ったのは容保だけではない、帝もそうであった。・・・あの男が京を離れては、おそらく戦慄す
べき事態がおこるだろうと帝は思った。容保を離京せしむべきではない。・・・ついに帝は意を決した。
一介の武家である容保に天皇の自筆による手紙を書き送ることにしたのである。

帝は書いた。すぐ、伝奏の飛鳥井中納言と野宮宰相をよび、それを下げ渡した。「これは、成りませぬ」
彼らは容保に宸翰を差し下すことを伝奏の立場から拒否したのである。しかし、この際の帝のお心は止むに
止まれない焦燥にあふれていた。帝は苦心のうえ、これを容保に届けさせることに成功する。

この辺のところは次のように書かれている。
・・・「まさか」と、容保はその文箱をみるまで信じなかった。信じられることではなかった。古来、天子
から武家に御直筆の宸翰がさがったというような例はない。南北朝時代にただ一例だけはあるという話を、
容保は聞いていた。後醍醐天皇が、新田義貞に宸翰を賜うたということである。それ以外にない。それさえ
伝説であった。おそらく噺ではなかったか。が、いま容保の目の前に進みつつある文箱の内容がもしそうで
あるとすれば、史上最初のものであるといってよかった。・・・・・文箱には二通の文書が入っていた。

・・・「今に於て守護職を遣わす(江戸に)ことは朕の毫(すこし)も欲せざるところにして、人の驕狂せ
るが為にやむを得ず此に至る」・・・・・・さらに意訳がつづく・・・
「最近、廷臣のなかで驕狂のものが多く、これに対して朕は力がおよばない。あるいはこのあと再び会津に
勅諚なるものがくだるかもしれない。それは偽勅であると心得よ。これが真勅である」・・・・・さらに、
帝の手紙はいう。
「いまかれらが会津藩を東下せしめようとするのは、この藩勇武であるため、京におれば奸人(三条ら長州
系公家と長州藩)の計策が行われがたいからである。今後も彼等は偽勅を発するであろう。しかしその真偽
よく会津において察識せよ」最後に孝明帝はいった。「朕は会津をもっとも頼みにしている。一朝有事のと
きにはその力を借らんと欲するものである」・・・・・・

そして、司馬さんはこのようにも書く、
・・・容保はこのいわば英雄時代の最後の人物といっていい。かれ自身は英雄でなくても、英雄的体験をし
た。リチャード獅子心王におけるロビン・フッド、後醍醐帝における楠木正成と同様の稀有な劇的体験をも
つことになった。・・この宸翰がそれである。・・

この孝明帝も慶応2年12月25日(1867.1.30)天然痘に罹り崩御されてしまう。この後、政情は大きく
変転いくのである。

・・・晩年の容保は、無口で物静かな隠居にすぎなかったが、肌身に妙なものをつけていた。長さ二十セン
チばかりの竹筒であった。この竹筒の両端にひもをつけ首から胸に垂らし、その上から衣服をつけていた。
・・・容保が死んだとき、遺臣がその竹筒の始末をどうすべきかを相談した。容保には五男一女がいたが、
かれらが父の通夜の夜、その竹筒をあけてみた。・・・宸翰であった。一通は、孝明帝が、容保を信頼し、
その忠誠をよろこび、無二の者に思う、という意味の御私信であり、他の一通は、長州とその係累の公家を
奸賊として罵倒された文意のものであった。
維新政府から逆賊として遇されたかれは、維新後それについてなんの抗弁もせず、ただこの二通の宸翰を肌
身につけていることでひそやかに自分を慰めつづけて余生を送った。・・・・・・


この宸翰はその後、東京銀行の金庫に預けられねむっている。と書かれて、この小説は終わっているが、
今年のNHK大河ドラマ「八重の桜」で会津が取り上げられる事にちなみ、関連する色々のことを取材した
特集番組が先年12月に放送されたが、この中でこの宸翰がテレビカメラに捉えられて放映された。
この時、案内を担当されたのが14代当主松平保久(モリヒサ)氏で、現在NHKエンタープライズ エグゼク
ティブプロデューサーとして活躍されておられる。
余談だが徳川宗家の現在の当主も会津松平家一門の方が継いでおられる。有為転変ですね。

後日、会津の藩祖にまつわる話をすこし書いてみたいと思います。


今日、これを書きながらFM放送「松尾潔のメロウな夜」(再放送)を聴いていました。とても嬉しいコメ
ントをされていて、聴きごたえがありました。詳しくは「感謝状」サイトで夢みどり様が詳しく書いておら
れます。島津亜矢さんが唄う「I Will Always Love You」のことでした。

八重さんのことを思いながら

1月も、はや15日が過ぎようとしています。遅ればせながら今年もよろしくお願いいたします。

昨年は、名古屋御園座において島津亜矢さんが初の座長公演を行ない、その第一部では本格2幕物の演劇
「会津のジャンヌ・ダルク~山本八重の半生~」を上演し大好評を博したのはまだ新しいのだが、さらに
10月にはこれを収録したDVDも発売されたし、年末には亜矢さんが唄う「八重~会津の花一輪~」も発
売されて好評です。
今年は更にNHK大河ドラマ「八重の桜」が放映開始となり、世はまさに会津の話題で盛り上がっているし
関連する番組も多い。東日本大震災後の復興はまだ途上であるが、東北福島に生まれた女傑‘八重’さんを
取り上げてその生き様を知ることは人々に勇気と希望を与えることになるだろうし、これらは全く時宜を得
た好企画だと思う。
これから、観光する人も増えて復興の一助になれば、福島の方々にとってもこの上ない喜びでしょう。

そこで、八重さんが前半生で活躍する最大の山場は鶴ヶ城で銃をとっての防衛戦となるのでしょうが、今少
しこの戦争の起因するところを、参考図書をながめながら少し書いてみることにします。

会津藩9代藩主松平容保は文久2年(1862)8月に京都守護職に就き、慶応3年(1868)1月に解職となる
までの足かけ7年間を、京都市内の治安維持のためにこの地で過ごした。本来京都の治安は京都奉行所や、
京都所司代がその役割を担うはずであったが、この頃は長州や土佐を中心とした尊攘派やその他浮浪が跳梁
跋扈していて、全く手におえる状況では無かったので治安はすこぶる悪かった。
そこで、幕府はこの混乱を抑えるために「京都守護職」という新職名を創設し、その役には松平容保に白羽
の矢を立て説得したのである。容保は家老などとも相談して固辞するも、その説得には当時将軍後見役であ
った徳川慶喜や政治総裁職であった松平春嶽らが当り、半ば強制的にその役を押し付けられたのである。

司馬遼太郎の小説「王城の護衛者」では、この辺りの遣り取りが見事に書かれているので少し引用する。
・・・春嶽はいちいち反駁した。しかし容保の拝辞の意思はうごかなかった。
「あなたも慶喜公も私も、おそれながら東照権現様(家康)の御血をひく者ではありませぬか。いま宗家は
未曽有の難局に立っております。慶喜公も私も、連枝の身ながらかかる俗務をひきうけた。東照権現様およ
び歴代大樹(将軍)のご恩を思えばこそです。会津松平家には御家訓(かきん)があると聞く」
(ある)と、容保はあきらかに動揺した。・・・

会津松平家初代藩主保科正之は言わずと知れた、徳川秀忠の庶子で3代将軍家光の弟である。この正之が藩
士が守るべきものとして残した15ヶ条の家訓がある。その一番目に次のことが書かれている。
1、大君の儀、一心大切に忠勤を存ずべく、列国(列藩)の例を以て自ら処るべからず。若し二心を抱か 
  ば、則ち我が子孫にあらず、面々決して従うべからず。
 ※注釈:「徳川将軍家については、一心に忠義を励むべきである。しかも他の諸藩と同じ程度の忠勤で 
  満足していてはならない。もし徳川将軍家に逆意を抱くような会津藩主があらわれたならば、そんな 
  者は我が子孫ではないから、決して従ってはならない」

 こんなものを持ち出されては容保公も抗しきれなかったでしょう。さすがの司馬遼さんの表現です。
かくして、容保が受任したこの時点で将来の会津戦争が必然のものになってしまったのだろうと思えてくる
が、ただ、家老の西郷頼母などは来るべき将来を危惧していて守護職を受けることに反対したと言われてい
るから、家中揃って諸手を挙げて賛成したものではなかった。

さて、京都の治安の面では、新選組を「会津肥後守御預浪士」として浮浪の大粛清に当たらせた他、薩摩藩
と組んで長州追い落としなどもやっている。これによる長州人の恨みは大きく、「薩賊、会奸」ととなえ、
容保を日本における最大の奸物として激しく憎悪したという。薩長連合はもっと後のことである。
いま、NHK大河ドラマ「八重の桜」が始まって、長州の吉田松陰と肥後勤皇党の宮部鼎三とが東北旅行の
際に山本家に立ち寄った場面が描かれていたが、この宮部鼎三も京都の池田屋で会合中、新撰組襲撃により
死亡した中の一人。この様に新選組による粛清は厳しく行われたから会津藩に対する怨念は後々までも尾を
引くことになる。

鳥羽伏見の戦いで会津藩兵が受けた被害は甚大であったらしいが、その収束もつかぬ間に慶喜や容保らは大
阪城から抜け出し天保山沖から軍艦開陽に乗って江戸に逃れてしまう。
そのあと江戸においては、慶喜は佐幕の先頭にいて活躍した容保を討幕派から狙われる存在として危険視し
て江戸城登城を禁止し、さらには「遠く府外へ立ち退くべし」という命を下してしまった。
容保は会津若松城へ帰城後慶喜の恭順にならって謹慎屏居し、京都の恩命を待ったが、聞こえてきたのは会
津討伐のうわさであった。
容保は何度か京都方へ嘆願書を送り、その嘆願書は数十通にのぼったらしいが、ことごとく容れられず奥羽
鎮撫総督の討伐を受けることとなり、ついに開戦を決意する。そして約一ヶ月にもおよぶ戦闘を経て、明治
元年9月22日に降伏をする。こののち会津藩の人達は奥州下北の地、斗南(となみ)に移住させられ辛酸
をなめることとなる。

なお、白虎隊士20名が自刃したのは8月23日で、戸の口原にての戦いのあと飯盛山で市街地の火災をみ
て悲愴感を覚えてのこととされる。ただ1名、飯沼貞吉は奇蹟的に蘇生したのでこの時死んだのは19名。
また、この時家老の西郷頼母は城中にあったが、頼母の母律子、妻千恵子など家族9人と一族12人が戦い
の足手まといとならないよう自刃して果てている。
その他、京都守護職のときの禁門の変以来、家臣で命を落としたものは多く3000人にも上るだろうと、
晩年の容保は述懐したと言われるから、幕末における会津藩の存在というのは悲劇性を帯びて哀しい。

こんな諸々の事を考えると歴史の必然というのは恐ろしいものだとつくづく思うが、事に直面する人々は
その局面をただ一生懸命に生きたのであり、歴史の渦の中で翻弄されたと分かるのは後の世の人ですね。

後日、また余談を続けたいと思います。



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    Author:ふうてんの猫
    亜矢姫の唄は芸術だと固く信じているおじんです。
    コンサートなどに参加したい気持ちはやまやまなれど、不如意のことが多いので、これは条件が整い次第となっています。

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