国定忠治の来歴

国定村のある赤城山麓は遠く南北朝の時代に足利尊氏と覇を競った新田義貞揺籃の地であるという。
また、国定の地名は新田氏の家臣団につらなる国定氏に由来することが高橋敏さんの著書に見える。

国定家に伝わる古文書「国定村浪士新古貴賤順席正記」によれば「古百姓拾六軒皆由緒有ル浪人也」とあ
り、国定家を根本大先祖に十六苗が受け継がれ、そのうちの一つが長岡氏であるという。忠治は世が
世であれば新田氏にしたがう武家、長岡氏の血脈を継承する家に生まれた。
農家としてはかなり裕福であったらしいが、父の死後は子供ながら馬方をしたとの話もある。

弟の友蔵さんは真面目で人々から尊敬を受けるほどの人であったというが、忠治は羽倉外記(元代官
)から「劇盗」と呼ばれるほどのアウトロー振りを発揮する。しかし、羽倉外記が著した「赤城録」では
、天保の飢饉のとき、本来公儀が行うべきことを忠治がやった任侠美談に羽倉の受けた衝撃は大きく
、穴があったら入りたいに程に己が不甲斐なさを「赤城録」に記しているという。

さらに、高橋さんはこう述べている。
「かっての学者代官が、極悪人として磔刑に処せられた忠治の実伝を著述していた事実だけでも、さ
まざまな想像を掻き立てられるには十分であろう。忠治にとっても、みずからの実伝が実務に優れた
幕吏にして文人であった羽倉外記によって書き残されたことは、何よりの冥加ではなかったろうか。
・・・・・」
また、歴史学は、人々が意識の奥底で語り思いつづけてきた民間の民情の歴史=稗史(はいし)を、
長く大衆文学や芝居・講釈・浪曲・映画等の芸能の世界に閉じ込めてきた。虚実皮膜の境界にあって
人間の怨念や思いが詰め込まれ、人々の記憶の奥に埋蔵された稗史にこそ、歴史の真実があるように
思われる。・・・・・と。

忠治を題材にした研究本や小説は、最近発刊されたものは無いように思われますが、ネットや図書館
で検索すればかなりのものがみつかります。
この中のほんの数冊に目を通しただけで、それを受け売りしても訪れて下さった方には何の興趣も湧
かないと思いますので、あまりくどくならないようにしたいと思います。ただ、忠治さんには愛人が
数人いたのですがその中に“女侠”いわれる程の豪気で痛快な女性がいましたので、この方について
はあと少しご紹介を続けたいと思います。


それではここで、忠治さんの来歴を記しておきます。
1810年(文化7年) 上野の国佐位群国定村(現在の伊勢崎市東町)の富農、長岡与五左衛門の
            長男として生まれる。母は伊代、弟に友蔵がいる。

1819年(文政2年) 父、与五左衛門亡くなる。

1826年(文政9年) 人を殺め川越の大前田英五郎のところに身を寄せる。

1827年(文政10年)英五郎から百々村(どうどうむら)の紋次親分を紹介され身を寄せる。

1830年(天保1年) 紋次が亡くなり跡目を継ぐ。国定一家を名乗る。
            お鶴を女房にもらう。

1834年(天保5年) 三ツ木の文蔵の恨みを晴らすため、島村の博徒、伊三郎を闇討ちにする。
            大戸の関所の間道を通り信州飯山に身を寄せる。後、ひそかに戻って赤城
            山に立て籠る。

1835年(天保6年) 玉村宿の京蔵、主馬一家との出入りで、主馬に重傷を負わせる。

1836年(天保7年) 飢饉に際して私財を投じて米銭に換え窮民に分け与える。また、忠治一家
            の者が機業の町桐生の豪商を訪ね、飢民救済のための施金をもらって歩い
            たともいう。                  
            江戸からの金飛脚を襲い、金を窮民に分け与えたとも言われる。(義賊)
            信州中野の博徒に殺された茅場の長兵衛の仇を討つため、子分20人を連
            れて中野に向う。この時、堂々と大戸の関所を破る。この道中、原七はす
            でに捕えられていることが分かり目的を果たせず。

1837年(天保8年) 田部井村(ためがい)の名主宇右衛門と共同し、磯沼の沼ざらいを行い、
            旱魃から農民を救う。(宇右衛門は、このことに幕府から難癖を付けられ
            たと同時に忠治を匿った罪で1850年に打首となった。忠治磔刑と同年
            である)

1838年(天保9年) 板割りの浅太郎、忠治一家に加わる。

1842年(天保13年)田部井村で賭場を開いていたところを、関東取締役出役に踏み込まれたが
            忠治はこの捕り方から逃れ、赤城山に籠る。
            板割の浅太郎らが勘助、勘太郎(太良吉)親子を殺害する。

1845年(弘化2年) 母の伊代亡くなる。

1846年(弘化3年) 忠治赤城山に戻る。五目牛の千代松が亡くなり、寡婦となった“お徳”が
            愛人となる。

1849年(嘉永2年) 境川安五郎に縄張りを譲る。

1850年(嘉永3年) 忠治が捕らわれて大戸の関所で磔刑になる。41歳。(12月21日)
            西野目宇右衛門も処刑される。

1851年(嘉永4年) 羽倉簡堂「赤城録、赤城逸事」を著す。
            田崎草雲、忠治像を描く。

1854年(安政1年) 忠治、講談に取り上げられる。

 忠治さんは長身で色白、鼻筋通り、口は普通、月代は濃く、太り気味、体重は20貫(75キロ)
 総合評価は大変な美男にであったと言います。

 以上は、「国定忠治とその外伝百三十話」大塚政義著 上毛新聞社刊
     および「国定忠治」高橋敏著 岩波新書刊 を参考としました。

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