鶴八鶴次郎(2)

二人は夕食を済ませたあと、涼しい山内を少し散歩した。この時に鶴八が不意にこんな話を切り出すのであった。「あなたには隠していたけれども、私は近々に身を固めようかと思っているの」
相手は上野の山下の金持ちで知られた伊予善という会席料理屋の末の息子、松崎敬二という人だという。
相手方とは先代の鶴八の時からの古い関係だという。
「芸を棄てるのかい」
「そうなれば」
鶴次郎の顔色の世にもみじめな憂いの色に閉じ込められているのは、四辺の暗さにまぎれて明らかには見えないのだった。
「お前に嫁に行かれちまって、一体あたしゃ、あたしゃ誰の三味線であしたっから……明日っから誰の三味線
で……誰の三味線で……」
「止しておくれよ。お豊ちゃん。お嫁に行くんなら、あたしんとこへ来ておくれ、あたしと夫婦になっておくれ、外へは行かないでおくれ」
お豊は、思いがけない鶴次郎の言葉に情がほだされて繰り言をいうのであった。

「一ぺんだって、そんな事を云い出してくれないで……私の方じゃ次郎さんのお内儀さんになれるものだと思っているから、今云い出してくれるか、今日はそう云ってくれるかと、心待ちにしているのに、お前の方じゃ、怖い顔して喧嘩ばかり吹きかけて来るじゃないか、それじゃ、いくら私が好きでいたって、だんだん心細くなって、次郎さんは私が嫌いだと思い込むようになるのが当たり前だよ」

こんな経緯があって、一緒になる口約束を交わす。

鶴次郎は、かなり古い昔から小さい希望を持っていた。新内語りの命脈が、いずれは「長からぬ」とあきらめをつけて、市内目抜きの場所に寄席を作りたいのが、彼の念願だったのだ。
この望みが叶ったら、お豊ちゃんと表向夫婦になりたいと思っているが、それには二万円ほどのお金がなければならない。そこで、二人一緒にお金を貯めることに、協力してくれないかとお豊に頼むのである。

しかし、手持ちのお金は三千五百円ばかりしかない、目当ての金高を貯めるにはこの先何年もかかる。そしてそのあいだ表向き夫婦にもなれない。この話を聞いたお豊は、「どうしても次郎さんがやりたいんなら、お母さんの残していってくれたお金を使ってもいいけれど……」と、持ち出すのであった。

お豊は預金を残らず引き出し二万円のお金を次郎の前に差出して、小さい寄席を一軒手にいれたのだった。
そして鶴次郎は開場の記念興行の招待状を逐一改めている中に松崎に宛てた封筒を見付けて、不審に思い頭取として頼んでいる、竹野に問い質すと、あっさり答えるのである。

「こりゃァ二代目のひいき先です」
「この席の買えたのは松崎さんのお陰です。二代目にとっちゃァ、先代からの古い大切なお客なんです」

鶴次郎はこれを聴いて成り行きを邪推し、荒れ狂ってしまう。

「二代目、いいかげんにしろ」
「お母さんの残した金なんぞと嘘を云ァやがって、俺を欺して、松崎から一万五千円の金を借りて、よくもそん な……」

松崎との関係を猜疑する次郎は悪口雑言を並べ立ててお豊を責めたてるので、ついにお豊も逆上し、取り返しのつかない破局へと向かってしまう。お豊にはやましいところは少しもなかったのに…
開場するはずだった鶴賀亭は、予定を変更して開場は延期になった。
鶴八も鶴次郎も、「今後一切同席もしない」と言い張って、どっちも強情に動かなかった。
鶴八は腹の底からの憤慨で、前後の分別がなくなっていた。そしていったんは打ち切りになっていた松崎へ「そちらで嫁にもらってくれるのならば」と改めて明確な返事をしたのだった。
並びない天才と云われた一組の芸人も、ふとしたものの行きちがいから、はなればなれの運命を拓いた。

鶴次郎は弟子の鶴市に三味線をひかせて口座へでたが、片われ月の物足りなさは到底今までの人気を持続する事は出来なかった。昔に変わらない声量はあっても「人気」という捉えどころのない無形の力をたよりにする芸人稼業は、実力ばかりで押し切ることが出来なかったのだ。
お豊に別れた鶴次郎は、一年ともたたぬ間に、落ち目から落ち目へ、ひたすら衰運への道をいそいだ。

そういう惨めな鶴次郎に引替えて、鶴八のお豊は極めて順調に幸福だった。
衰運の山道をあえぎあえぎ登り行く鶴次郎と、幸福の小川をゆるやかに下る鶴八と…月日はたちまち三年すぎた。

古い舞台番の佐平が、三年ぶりにお豊を訪ねてきていた。
「昔にくらべればいくらか芸も落ちましたが、しかしまだまだ声がおとろえません。年も三十二、これから油の 乗るところで、落ち目になる年じゃァありませんが、二代目さんに別れたのが運のつきで次郎さんもいまじゃァ しみじみ後悔しております。あっしも、どうかしております。次郎さんをもう一度世に出したい、もう一ぺんあ の新富座の名人会時分の、あの全盛におさせ申したいんでござんす」

「五月の十五日から、今度は丸の内の有楽座で、また名人会がございます。・・・」
「二代目さん、堅気の立派な奥さんになっていらっしゃる貴女にこんな事を云うのは、初めから無理だと承知して伺ったんでぞざんす。お腹が立ちましたらどうかどうかご勘弁願います。実は、その名人会へあっしゃァ、
もう一ぺん鶴八鶴次郎の看板をあげてぇンでございます。顔ぶれは昔の通り円右、小さん、円蔵、典山、伯山、浄瑠璃は朝太夫で……」
「鶴八」と、お豊は忘れていた自分の芸名を、三年ぶりで口にした。

「どうでござんしょう、十五日から二十日まで六日間の名人会へ、昔の鶴八師匠に帰って頂く事はできねえでしょうか。落ち目になった鶴次郎さんを助けると思召して、六日間の名人会へ体をお貸し下さるわけにはまいりませんでしょうか」

それから間もなく丸の内の有楽座に、名人会の看板があがって、鶴八鶴次郎の二人名前が三年ぶりで並んで書かれた。万事は佐平の計らいで、興行人の竹野も、「芸が確かなら、まだ客はつく」と、ずるそうな事を云っていた。

次のスレへ続けます・・

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