細川ガラシャ「お玉」のこと

皆様良い年をお迎えのこととお慶び申し上げます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。


申すもはばかることなれど
日州どのがおんひめは
衣通姫もただならず

祇園の懸想文売りが都の大路小路にふれあるいていたという。・・・司馬遼太郎さんの小説「胡桃に酒」の
書き出しである。・・・胡桃に酒は、食い合わせらしい。すなわち“たま”と“忠興”は食い合わせではな
かったかとする物語であるが、なかなか面白い。以下、この小説を拾い読みしながら“たま”の生涯を断片
的に捉えてみたいと思う。

「衣通姫」(そとおりひめ)
というのは、遠いむかし、允恭亭の第二妃だったと伝えられる美女で、その容色のかがやきは衣を透したと
いう。(今日、4日の演歌桜・亜矢桜掲示板で“みづは様”が和歌の浦の玉津島神社のことに触れておられ
ますがこの神社の祭神3柱の内1柱がこの「衣通姫」。何か不思議なご縁をかんじますね~。)
「日州どのがおんひめ」と懸想文(恋文を代書きしたもの)売りがいう丹波の国主明智日向守光秀の三女も
そうであると比喩しての、はやし言葉であるから余程の美女であったに違いない。

この姫を細川家が迎える。
当主は細川幽斎(藤孝)であった。幽斎は当初、足利家の直臣であったが後に織田家につかえ軍功があり、
光秀が丹波をあたえられると同時に、日本海に面した丹後の国をあたえられ、宮津城主になった。しかし細
川家はもともと京侍の出であるためにその先祖以来の城館が京に近い桂川のほとり勝竜寺村にある。そこに
長子忠興が住み、平素は信長の近習としてそば近くに仕えている。嫁はこの忠興に配せられる。嫁が入るべ
き城館は、山城勝竜寺城であった。

亜矢姫が唄い演じる「お玉」は、自我の葛藤をキリスト教の信仰心によって救いを求めるということが全篇
をつらぬいて脚色されていたと思うが、宗教をメーンに据えれば信者以外の方には、その奥深いところまで
はなかなか分かりにくいところがあったと思われる。
この小説にはお玉の信仰の内面がすこし書かれているので、これを少し引用して理解の一助にしたい。

・・・悲しむ者は幸福なり。
傾倒の最初はこの言葉からであった。父母とその一族を失って自らも配所に移されたとき、“たま”はこの
世で自分ほど不幸ななものはないと思ったが、この言葉を吐いた人はおそらく生きている者の悲しみの底ま
でなめつくした人であろうと思った。
“たま”のキリストへの傾斜は忠興がそう思っているような思想的な関心でなく、キリストの肉声を最初か
ら恋うた。キリストの生身への恋情であり、あがくようにしてキリストの肉声をより多く知ろうとした。
これは忠興にはかくさねばならなかった。
「天主はへりくだる者に恩寵をあたえ給い、傲慢なる者には敵対し給う」ということばを聞いたとき、傲慢
なる者として、父を殺した秀吉の今を時めく姿を思った。彼女が復讐すべき秀吉はたれの手を待つまでもな
く、キリストの敵対を受ける。この断言は儒教にも禅にもなかった。
光秀の遺児である彼女としてはこの世のいかなる者――忠興も含めて――よりもキリストを恋い奉るのは当
然であろう。・・・

ちなみに、1587年(天正15年)に秀吉はバテレン追放令を出していて信仰は自由ではなかったから、
“たま”がこの頃からガラシャ婦人と呼ばれたわけではなく、そう呼ばれ出したのは明治期に入ってからだ
という。

・・・忠興については、キリストの肉声はいう。「世の大名高家と人の子等に頼みを懸くることなけれ、彼
らは扶くる力を持たざればなり」と。“たま”を救う者は忠興ではない。
「終に彼等の生命はほろびて土に帰るべし」さらにキリストは二人の主人をもつな、と激しくいう。天主の
みに仕えよ。「何人も二人の君に仕ふること叶はず。宝を主人とし貪欲に身を渡して、しかも御あるじ天主
を思ひ奉る事叶わず」・・・と。

ところで、忠興は“たま”があまりの美貌故の悋気が並みはずれて強かったという。こんな挿話がこの夫婦
にはあったらしく、活写されている。
・・・ふたりで膳部をはさみ、食事をしていた。このときむこうの棟で屋根師が仕事をしていたが、その男
が“たま”を窺い観たのかどうかとにかく足をすべらし、屋根から落ちた。忠興は大剣つかんで縁から飛び
降り、かなたへ駈けつけざま、その男の首をたたきおとした。例によって、首が落ちてからこの人物は後悔
した。と同時に“たま”の様子が気になり、座敷を激しいいきおいでふりかえった。
“たま”が驚いているだろうと思ったところ、“たま”の挙措はすこしもかわらず、端然として食事を続け
ている。・・・屋根師を殺してしまったのも、“たま”を愛するがためではないか。いわば“たま”が殺し
たのも同然であると思い、さらにあの“たま”の口から音のひとつも、できれば叫び声一つもあげさせて呉
れようとおもい、その生首をつかみ、駈けもどって首を空いた膳部の上に据えた。

どうだ――と、“たま”をにらみすえたが、“たま”の様子に変わりがなく箸は依然としてうごいている。
さらに、“たま”の箸が移って菜をはさもうとしたとき、忠興はたまりかねてわめいた。
「そなたは蛇か。―― 」 “たま”はわずかに目をあげた。
「鬼の女房に蛇が似合いでございましょう」といった。それだけであった。
これだけの衝撃に堪えるだけの気根をもったこの婦人が、その亭主に対し誹謗がましいことをいったのは、
このひとことぐらいしかない。・・・ 
この話は、史実かどうか分からないが二人の性格を端的にあらわしているものと思う。

        
忠興その人は大変な戦上手で政治手腕にもすぐれ、織田、豊臣、徳川と続く政治的混乱の中をうまく生き延
びた才覚は非常に優れたものがあった。また、文化人としても利休に師事し、後に茶道の一流派を興したと
いわれる。利休が切腹を命じられた時、利休を見舞ったのは忠興と古田織部だけであったとされ、このこと
は三国連太郎の映画、利休にも描かれていた。
一方、非常に苛烈な一面を持ち、上のような挿話もあるが、人質事件で“たま”が自害焼死したことについ
ては嫡男忠隆を責め廃嫡にしている。
また、自害に手をかしたとされる小笠原少斎の遺族は一時追放の憂き目にあい、さらには別の理由でその嫡
子弦也が家族十四人とともに誅殺されたと書かれている。

また跡取りについては、次男興秋は伯父の養子とされていたので嫡子とされず、三男忠利が家督を継いだ。
ちなみに、加藤清正死後熊本に入部したのはこの忠利であるが、“たま”は三男二女を儲けていた。

このように、“たま”の生涯は波瀾万丈であったが、忠興はいつも“たま”の機嫌を取り続けるような気遣
いをみせたと書かれているので、幸せな時期もあったであろう。忠興しかりである。
ただ、聡明な人であったので、信仰であれ、忠興のことであれ、肉親の境涯のことであれ、また他者に対す
る怨念であれ、秘めた内心は決して洩らさなったと思われるから、夫忠興も“たま”の心の奥底までは見え
ていなかったのではないかというのが司馬観だ。
ただ、人質事件のときにとった“たま”の行動は確信に満ちたものでありこれ以外の道はなかったのではな
いかと思わせる。享年38歳であった。(慶長5年7月17日=1600年8月25日)

「胡桃に酒」は、文春文庫「故郷忘れじがたく候」に収録されていますので、これを資料としました。

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    亜矢姫の唄は芸術だと固く信じているおじんです。
    コンサートなどに参加したい気持ちはやまやまなれど、不如意のことが多いので、これは条件が整い次第となっています。

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