『瞼の母』よもやま話(3)

嘉永二年(1849)の秋、江戸の柳橋辺りを巡るうち、「料亭茶屋水熊」の女主人の元知人だという夜鷹の
‘おとら’婆さんから、「水熊」の女将‘おはま’が江州から来た人だということを聞かされる。
店に入って、尋ねるのをためらう忠太郎だったが、意を決して土間へと入り込む・・・
ここからは、忠太郎と‘おはま’との遣り取りが最大の見せ場となるのですが、最近BSプレミアムで視た
映画では中村錦之助と小暮実千代が好演していて、とても見応えがありました。特に錦之助さん、時代劇役
者さんらしい面目があって何ともいえない風格とカッコ良さを感じました。こんな雰囲気を出すのは今の俳
優さんには無理だろうな~と一人合点したところでしたが、時代が違いますから仕方ありません。

ここで少し、柳橋の歴史を穿ってみましょう。
柳橋は、かって東京都台東区柳橋に存在した花街で、江戸時代文化年間1804~頃から栄え、安政6年(
1859)には芸妓140~150人にも達するほどの賑わいとなり、さらに後年の昭和3年(1928)には料理
屋、待合合わせて62軒、芸妓366名の大規模を誇ったと言います。芸妓の技芸も優れ新橋演舞場や明治
座にも出演したと説明されています。
昭和39年(1964)の東京オリンピック以後は衰退し、特に隅田川の護岸改修(カミナリ堤防)で景色が遮
断されたのが衰退する大きな原因になったとされています。平成11年には(1999)には最後の料亭「いな
垣」が廃業し、200年近くの歴史に終止符を打ちました。(Web)

柳橋は地理的には隅田川を挟んで両国駅の反対側辺りになると思いますが。少し北に行けば浅草ですし、更
に北に行けば男はおろか女性にまで憧れを持たれたという吉原があったのでしたから、この界隈の往時の賑
わいはどれほどのものだったろうかと、あらぬところに思いが馳せます。

戯曲での舞台となる「料理茶屋水熊」は使用人が6人も居て、身代はかなり大きいように描かれています。
忠太郎はユスリ、騙りと警戒されて'けんもほろろ’の言葉を浴びてしまうのですが、「水熊」の店の格が
しっかりお膳立てされていますから、‘おはま’の物言いが人間の身勝手な本音を語らせていて、これはこ
れで納得できるものがあります。比べて忠太郎の一途で純な心も、身につまされるような迫力をもって伝わ
ってきます。この対比が見事でこの物語を一層に際立たせていると感じます。

歌の『瞼の母』は多数の方が唄っていて、それぞれ持ち味が出ていて興趣があるのですが、何といっても極
め付きは島津亜矢さんが松山(2月BS日本のうた)で唄われたものに尽きると思っています。
亜矢さんの唄では、特に科白の部分で渡世にもまれて育った荒々しさと男らしさが出ていて、泣きたい心は
奥に隠している。この感情の起伏表現が絶妙で、聴く者は完全に同化させられてしまいます。他の方の中に
は女々しく表現される方もいるが、それはちょっと違うでしょうと思ってしまって、引いてしまう。
次に良いのは亜矢さんのCD。松山でのものは時が経過している分だけ表現に深みが増していて、震える
ような凄みを感じます。

さて、大詰第三場は忠太郎が「水熊」を出たあとの荒川堤になっています。
「水熊」に強面で入り婿になりたい下心を持つ、ごろつきの‘素盲の金五郎’と不良浪人'鳥羽田要助’に
荒川堤で待ち伏せされて襲われますが、先ず鳥羽田を切り倒す。このとき、後をおってきた‘おはまとお登
世’の話声を聞くのですが・・・母娘は悄然として去っていきます。
この時の情景が原作では次のようになっています。
 俺あ厭だ――厭だ――厭だ――だれが会ってやるものか。(ひがみと反抗心が募り、母妹の嘆きが却って
痛快に感じられる、しかもうしろ髪ひかれる未練が出る)
 俺あ、こう上下の瞼を合せ、じいッと考えてりゃあ、逢わねえ昔のおッかさんの俤(オモカゲ)が出てくる
んだ――それでいいんだ。(歩く)逢いたくなったら俺あ、眼をつぶろうよ。(永久に母子にあうまじと歩
く)・・・
(このとき、陰に隠れていた金五郎が刀をもって忠太郎を刺さんとするが、それに気が付いた忠太郎は・)
 忠太郎~お前の面あ思い出したぜ。(斬る気になり、考え直す)お前、親は。
 金五郎~(少し呆れて)何だと、親だと、そんなものがあるもんかい。
 忠太郎~子は。
 金五郎~無え。
 忠太郎~(素早く斬り倒し、血を拭い鞘に納め、斜めの径を歩き、母子の去れる方を振り返りかけてやめ
      る)
 船頭歌~降ろが照ろうが、風吹くままよ、東行こうと、西行こと。・・・・・・・・幕

やっぱり、忠太郎は母恋しぐれなんですね~。


ところで、ここで言う荒川堤とはどこかと穿ってみると、
1683年(貞享3年)また一説によれば寛永年間(1622年-1643年)までは下総国と武蔵国の国境であった。
1629年(寛永6年)の荒川瀬替えにより荒川の本流となったが、洪水を防ぐ為に明治末期から昭和初期にか
けて岩淵水門から河口までの荒川放水路が建設され、こちらが現在「荒川」と呼ばれている。
1965年3月24日に出された政令によって荒川放水路が荒川の本流となり、分岐点である岩淵水門より
下流は俗称であった「隅田川」に改称された。(Wikipedia)
上のような記述がありますから、この戯曲での荒川堤は現在の隅田川の堤だと思うのが妥当かと思えます。

以上で、瞼の母よもやま話は終わりにします。

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    亜矢姫の唄は芸術だと固く信じているおじんです。
    コンサートなどに参加したい気持ちはやまやまなれど、不如意のことが多いので、これは条件が整い次第となっています。

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