NHK「BS歴史館」に見る、忠臣蔵

2月13日放送の「BS歴史館 妻よ!子よ!家族をめぐる忠臣蔵」
                  ~大石内蔵助・究極の選択~を見ました。

歴史とは現在と過去との対話である(E・H・カー)。このフレーズをサブ命題とする「BS歴史館」を偶
に視聴しています。今回は忠臣蔵、なかんずく浪士達と家族との絆を掘り下げたものでした。

5万石の赤穂藩、内蔵助は藩主内匠頭に次ぐ筆頭家老として300人余りの家臣団を纏める実力者でした。
元禄14年3月14日、殿中刃傷事件が勃発。幕府の裁定で内匠頭は即日切腹、浅野家取りつぶし、1か月
後の赤穂城の明け渡しを迫られます。
つまり、藩主の不祥事で赤穂藩は倒産。大石はじめ家臣全員失業となり家族諸共路頭に迷うことになった。
内蔵助は藩士たちを集め緊急会議を行います。結論は城明け渡し、・・大学様の面目もある、謹慎が解かれ
人前が成りたつよう上野介になんらかの処罰がなければこのままではおかない、今回のことは内蔵助に任せ
て欲しい。・・元禄14年4月19日 赤穂城明け渡し。

内匠頭の切腹は内蔵助にとって晴天の霹靂だったでしょう。
江戸藩邸の明け渡し、上屋敷と二つの下屋敷の全部を空にして幕府に返さなければならない。国許では藩札
の回収をしなければならない。
4月19日が城明け渡しの日であるが、その前の4月15日までに家臣全員城下町から退去しなければなら
ない。内蔵助は親類に新居探しを手紙で依頼しているのは切腹の知らせが届いた2日後の3月21日のこと
でした。・・すでにご承知のように赤穂浅野家が断絶になります。つきましては山科、山崎あたりで山裾の
良い場所がないでしょうか、十四、五人が出入りすることになるでしょう、伏見、大津あたりでも結構・・
こんな依頼をしつつ、残務整理~どんな村があって石高、年貢、塩の運上金等がいか程あるのか、引き継ぎ
書類作成~こんな作業を指揮しなければなりません。

赤穂市立歴史博物館に、内蔵助が藩士との間で交わした「ご神文」(盟約書、誓約書、起請文の類)が残さ
れています。
・・このたびの相談の御主意を間違いなく申し合わせ、本意を達すること一義については他人はもちろん親
子、兄弟、妻子であっても決して伝えないこと。これに反した者は日の本国中の神仏の罰を受ける。・・
ご主意、本意、一義など抽象的な言葉が並び盟約の具体的内容は一言も書かれていなくて、政治的配慮で書
かれている。藩士300余名の内神文に署名したのは120名ほどでしたが、この後、諸々の事情で脱盟す
るものが多く、結局最終的に討ち入りに加わった者は47名。

討ち入った浪士たちは切腹して果てましたが、主君のために家族を犠牲にした浪士たち。彼らは討ち入り直
前まで忠義を貫くか、家族の為に生きる道を探るか葛藤し続けていたのです。
内入り直前の手紙には妻や子の行く末を案じる痛切な思いが!大石神社には浪士が討ち入り前、家族に送っ
た貴重な手紙が残されています。

木村岡右衛門
・・娘は、堅実な家に養子にやってください、あなた(妻)は私の四十九日が終わったら早々に再婚してく
ださい。

萱野三平~討ち入りか家族か、終には自ら命を絶ってしまうものも!
・・忠義と孝行の間で、どうしていいのかわからなくなりました。悩んだ末に自殺します。・・
神文を交わし親子の間柄でも口外しなと誓ったため、忠義と孝行の間でどうしていいのかわからなくなり、
悩んだ末に自殺します。

大高源五~母への手紙。年老いた母に宛てた手紙は読みやすい文字で書かれ、母一人残していく悲痛な思い
がこもります。
・・いまさら申し上げるべきこともございませんが、これが最後の手紙です。本当に本当に先立ちます不孝
の罪は後生も恐ろしく存じますが、私事で捨てる命ではございませんので、深く御嘆きにならず、私のため
に御念仏を唱えていただくよう頼みます。

神崎与五郎~母親の面倒を妻に託す手紙からは夫婦の深い愛情が伝わってきます。
・・侍の妻たる者が、夫のことばかり考えて嘆くというようなことはよくないので、よくよく気をしっかり
と持って心を取り直してください。私も、あなたのことが恋しいけれども、これは人間としての務めなので
す。・・
浪士たちが残した手紙からは忠義だけでは語りつくせない家族への深い思いが浮かび上がってきます。

思えば、靖国神社の境内に特攻隊員が家族に宛てた手紙が掲示されているのを目にするときも、嗚咽がこみ
あげてくるのを抑えきれなくなりますが、家族への思いや絆の深さは時代を問わずに不変のものなのだと、
改めて深く考えさせられます。やっぱり生身の人間ですからねえ。

この番組では、生活者としての武士の在り方というものも問うてみたい。という事がテーマとしてあったよ
うに思いますが、コメンテーターの話としては、元禄時代は現在の家族構成や感情に近寄った時代であり、
外へ出たら所属組織を家のように見て勤めを果たしていくという時代であり、それが少なくとも昭和の時代
までは連綿と続いてきたけれど、平成の今は世相が変わってきたように思うと話すのは、磯田准教授。


必死でお家再興を求めた内蔵助であったが、吉良上野介の隠居が決まった直後の元禄14年12月15日 
長男 松之亟を元服させ、名を大石主税吉金と改める。あだ討ちへの参加を示し、同士たちへのアピールと
した。討ち入りへの覚悟と家族との別れも行い、元禄15年4月15日妻理玖と長女くうを実家の豊岡に帰
えした。この時、理玖のお腹の中には赤ん坊がいた。6月には次男吉千代を出家させた。討ち入り後の処分
が及ばないよう配慮したと言われる。そして7月5日理玖は三男を無事出産 大三郎と名付ける。内蔵助は
我が子の顔を見ることは永久にありませんでした。

元禄15年7月18日浅野大学が広島の浅野本家に預かりの身となったため、大学を立て浅野家最高を願っ
た内蔵助の望みは潰えた。そして7月28日京都円山でで開かれた会議で、ついに内蔵助は討ち入りを表明
する。
元禄15年10月1日、内蔵助は豊岡にいる妻の父親に離縁状を送る。
・・近く田舎に引っ込み滞留します。それについて妻の儀そのまま指しおくことも心落ち着かないので一応
妻をお返しいたします。しかし妻に不届きがあってのことではなく拙者一分の存じよりのためです。・・
事件を起こしたりすると、家族連帯或いは一族連帯の責任をとらなければならないということになるので、
これは偽装離婚というべきもので家を守り或いは家族を守るための離縁であると言えると説明されていまし
た。

『浅野家家来口上書』討ち入りの際、吉良邸の門前に掲げられ、その後大目付の屋敷に提出され、また幕閣
にも読まれた文章である。そこには討ち入りを決行した理由や目的が克明に書かれている。
・・上野介を討ち留めることができなかった内匠頭の心底を考えると家臣には忍びがたいものがある。不倶
戴天の敵を討つために吉良邸に討ち入る。・・
内蔵助にとって討ち入りを正当化することは吉良の首を取ることと同様に重要なことであった。残っている
人達の名誉を獲得する、また討ち入った人たちの家族たちが再生活できる環境を整えていく。
かくして、元禄15年(1702)年12月14日、47人にて討ち入りを決行する。
討ち入りから2か月足らず、元禄16年2月4日、大石内蔵助ら46名が切腹。大石内蔵助享年45歳。

京都、円山会議の三日前の元禄15年7月25日、内蔵助は里帰りしていた妻の理玖に『最後の手紙』を出
していた。
・・・私もこちらで支度次第に父子(主税)で江戸へ下向するつもりなので左様御心得いただきたい、今は
八坂神社の祇園踊りの時期なので私も主税もを連れて見に行ってきた、なかなかおもしろいものだった。
伏見の有名な踊りも見て大変驚くほどのものだった。あなたへぜひ見せたいものだと心の底から思ったこと
だ。・・・
さらに手紙にはまだ見ぬ息子への思いが綴られている。
・・・あなたが名付けた赤子の名前、大三郎はとてもいい名前だ、ぜひ一目会いたいものだ・・・大三郎は
きっと幸せ者である。後々よい所へ養子に出してやってほしい・・・
誕生したばかりの息子大三郎、結局内蔵助は一度も会うことなくこの世を去った。

それから10年、正徳3(1713)年、大三郎が浅野本家の広島藩に1500石という破格の待遇で召し抱え
られることになった。大石家の再興です。1500石は筆頭家老だった内蔵助とちょうど同じ石高でした。

理玖は亡き内蔵助への思いも込めて手紙に次のように書き留めています。
・・・年月の憂きことも忘れて喜んでおります。ひとしおひとしおありがたき幸せ、これも内蔵助のおかげ
で本人も本望でありましょう。とかく人は息災命ながらえ候こと肝要に御座候・・・

「何を大切に人は生きるのか?ということを考えさせてもらう物語だと思っている」と、話すのは磯田准教
授でしたが、視聴者にとってもとても示唆に富んだ番組の内容であり、とても楽しめた番組でした。
内蔵助の透徹した物の考え方、家臣への人間愛、家族への思いやり、物事を成し遂げる沈着な判断力と行動
力、各方面への気配り、人を束ね動かす力量、これらをあまねく兼ね備えた人が内蔵助でした。
この事件がなければ、内蔵助という方は藩にとって大功績を挙げ得た人になったのだろう、と言うのがコメ
ンテーターの方々の一致した意見でした。

この放送の翌日、「忠臣蔵 四十七人の刺客」という高倉健主演映画が放送されましたが、内容的には「B
S歴史館」で語られた大石内蔵助の人物像には程遠く、全体に冗漫で面白味に欠けていました。映画より歴
史研究番組の方が面白いという妙な体験をしてしまいました。

司会:渡辺真理 
コメンテーター:谷口眞子(早稲田大学 準教授)、磯田道史(静岡文化芸術大学准教授)
        中村吉右衛門(歌舞伎俳優) 

ところで、島津亜矢さんは三波春夫さんの歌謡浪曲を五曲カバーされていますが、内四曲は忠臣蔵物です。
アルバム「BS日本のうた」では、第1集に元禄名槍譜俵星玄蕃、第2集に豪商一代紀伊国屋文左衛門、
第3集に元禄花の兄弟赤垣源蔵、第4集に元禄桜吹雪決闘高田の馬場、第5集に元禄男の友情立花左近、が
それぞれ収録されていますが、兄弟の絆を描いた曲は赤垣源蔵です。別れの心情が切々と語られます。
・・・兄の屋敷を立出でる 一足歩いて立ち止まり、二足歩いて振り返り 此れが別れか見納めか・・・

この曲を下で、聴かせてもらうことにしましょう。
http://gennyou.blog.fc2.com/blog-entry-82.html

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    Author:ふうてんの猫
    亜矢姫の唄は芸術だと固く信じているおじんです。
    コンサートなどに参加したい気持ちはやまやまなれど、不如意のことが多いので、これは条件が整い次第となっています。

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