八重さんのことを思いながら

1月も、はや15日が過ぎようとしています。遅ればせながら今年もよろしくお願いいたします。

昨年は、名古屋御園座において島津亜矢さんが初の座長公演を行ない、その第一部では本格2幕物の演劇
「会津のジャンヌ・ダルク~山本八重の半生~」を上演し大好評を博したのはまだ新しいのだが、さらに
10月にはこれを収録したDVDも発売されたし、年末には亜矢さんが唄う「八重~会津の花一輪~」も発
売されて好評です。
今年は更にNHK大河ドラマ「八重の桜」が放映開始となり、世はまさに会津の話題で盛り上がっているし
関連する番組も多い。東日本大震災後の復興はまだ途上であるが、東北福島に生まれた女傑‘八重’さんを
取り上げてその生き様を知ることは人々に勇気と希望を与えることになるだろうし、これらは全く時宜を得
た好企画だと思う。
これから、観光する人も増えて復興の一助になれば、福島の方々にとってもこの上ない喜びでしょう。

そこで、八重さんが前半生で活躍する最大の山場は鶴ヶ城で銃をとっての防衛戦となるのでしょうが、今少
しこの戦争の起因するところを、参考図書をながめながら少し書いてみることにします。

会津藩9代藩主松平容保は文久2年(1862)8月に京都守護職に就き、慶応3年(1868)1月に解職となる
までの足かけ7年間を、京都市内の治安維持のためにこの地で過ごした。本来京都の治安は京都奉行所や、
京都所司代がその役割を担うはずであったが、この頃は長州や土佐を中心とした尊攘派やその他浮浪が跳梁
跋扈していて、全く手におえる状況では無かったので治安はすこぶる悪かった。
そこで、幕府はこの混乱を抑えるために「京都守護職」という新職名を創設し、その役には松平容保に白羽
の矢を立て説得したのである。容保は家老などとも相談して固辞するも、その説得には当時将軍後見役であ
った徳川慶喜や政治総裁職であった松平春嶽らが当り、半ば強制的にその役を押し付けられたのである。

司馬遼太郎の小説「王城の護衛者」では、この辺りの遣り取りが見事に書かれているので少し引用する。
・・・春嶽はいちいち反駁した。しかし容保の拝辞の意思はうごかなかった。
「あなたも慶喜公も私も、おそれながら東照権現様(家康)の御血をひく者ではありませぬか。いま宗家は
未曽有の難局に立っております。慶喜公も私も、連枝の身ながらかかる俗務をひきうけた。東照権現様およ
び歴代大樹(将軍)のご恩を思えばこそです。会津松平家には御家訓(かきん)があると聞く」
(ある)と、容保はあきらかに動揺した。・・・

会津松平家初代藩主保科正之は言わずと知れた、徳川秀忠の庶子で3代将軍家光の弟である。この正之が藩
士が守るべきものとして残した15ヶ条の家訓がある。その一番目に次のことが書かれている。
1、大君の儀、一心大切に忠勤を存ずべく、列国(列藩)の例を以て自ら処るべからず。若し二心を抱か 
  ば、則ち我が子孫にあらず、面々決して従うべからず。
 ※注釈:「徳川将軍家については、一心に忠義を励むべきである。しかも他の諸藩と同じ程度の忠勤で 
  満足していてはならない。もし徳川将軍家に逆意を抱くような会津藩主があらわれたならば、そんな 
  者は我が子孫ではないから、決して従ってはならない」

 こんなものを持ち出されては容保公も抗しきれなかったでしょう。さすがの司馬遼さんの表現です。
かくして、容保が受任したこの時点で将来の会津戦争が必然のものになってしまったのだろうと思えてくる
が、ただ、家老の西郷頼母などは来るべき将来を危惧していて守護職を受けることに反対したと言われてい
るから、家中揃って諸手を挙げて賛成したものではなかった。

さて、京都の治安の面では、新選組を「会津肥後守御預浪士」として浮浪の大粛清に当たらせた他、薩摩藩
と組んで長州追い落としなどもやっている。これによる長州人の恨みは大きく、「薩賊、会奸」ととなえ、
容保を日本における最大の奸物として激しく憎悪したという。薩長連合はもっと後のことである。
いま、NHK大河ドラマ「八重の桜」が始まって、長州の吉田松陰と肥後勤皇党の宮部鼎三とが東北旅行の
際に山本家に立ち寄った場面が描かれていたが、この宮部鼎三も京都の池田屋で会合中、新撰組襲撃により
死亡した中の一人。この様に新選組による粛清は厳しく行われたから会津藩に対する怨念は後々までも尾を
引くことになる。

鳥羽伏見の戦いで会津藩兵が受けた被害は甚大であったらしいが、その収束もつかぬ間に慶喜や容保らは大
阪城から抜け出し天保山沖から軍艦開陽に乗って江戸に逃れてしまう。
そのあと江戸においては、慶喜は佐幕の先頭にいて活躍した容保を討幕派から狙われる存在として危険視し
て江戸城登城を禁止し、さらには「遠く府外へ立ち退くべし」という命を下してしまった。
容保は会津若松城へ帰城後慶喜の恭順にならって謹慎屏居し、京都の恩命を待ったが、聞こえてきたのは会
津討伐のうわさであった。
容保は何度か京都方へ嘆願書を送り、その嘆願書は数十通にのぼったらしいが、ことごとく容れられず奥羽
鎮撫総督の討伐を受けることとなり、ついに開戦を決意する。そして約一ヶ月にもおよぶ戦闘を経て、明治
元年9月22日に降伏をする。こののち会津藩の人達は奥州下北の地、斗南(となみ)に移住させられ辛酸
をなめることとなる。

なお、白虎隊士20名が自刃したのは8月23日で、戸の口原にての戦いのあと飯盛山で市街地の火災をみ
て悲愴感を覚えてのこととされる。ただ1名、飯沼貞吉は奇蹟的に蘇生したのでこの時死んだのは19名。
また、この時家老の西郷頼母は城中にあったが、頼母の母律子、妻千恵子など家族9人と一族12人が戦い
の足手まといとならないよう自刃して果てている。
その他、京都守護職のときの禁門の変以来、家臣で命を落としたものは多く3000人にも上るだろうと、
晩年の容保は述懐したと言われるから、幕末における会津藩の存在というのは悲劇性を帯びて哀しい。

こんな諸々の事を考えると歴史の必然というのは恐ろしいものだとつくづく思うが、事に直面する人々は
その局面をただ一生懸命に生きたのであり、歴史の渦の中で翻弄されたと分かるのは後の世の人ですね。

後日、また余談を続けたいと思います。



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    亜矢姫の唄は芸術だと固く信じているおじんです。
    コンサートなどに参加したい気持ちはやまやまなれど、不如意のことが多いので、これは条件が整い次第となっています。

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