会津の名君 保科正之

去年の7月2日、NHKBSプレミアムでの番組「BS歴史館」では会津松平家の初代藩主保科正之を取り
上げて放送が行われました。そして昨日も(2月5日)それが再放送されていましたが、定例外の再放送で
したからきっと視聴者からの要望があったのかも知れません。
副題が「今いてほしい!?日本を変えたリーダーたち」番組情報は「日本一幸せな国を作ろう!江戸初期、
将軍補佐・会津藩主を務めた保科正之は、巨大災害への対策や産業発展で決断力と指導力を発揮した。東北
を代表するリーダー真打登場!」と、なっています。
ここでこの番組に出演されたコメンテーターの発言内容を少し、拾い上げてみます。

作家:中村彰彦氏~江戸時代、副将軍格とかいう言葉が出てくるが実際に副将軍格の立場で活躍した人はこ
の人だけである。いまで言うと、内閣総理大臣で福島県知事のような存在。日本史を勉強してきて最も尊敬
できる日本人。

漫画家:黒鉄ヒロシ氏~世界史的に見てもこんなに瑕疵の無い完璧に近い人間はいないと思う。

静岡文化芸術大学准教授:磯田道史氏~この人がいたから徳川という時代が長かったのだと思う。
もし、保科正之がいなかったら、もしくは並み通りの人間だったら徳川は四代ぐらいで、かなり危なかった
かも知れないと思う。

慶安四年(1651)四月二十日三代将軍家光は臨終の時が迫ると枕頭へ正之を呼び寄せて、幼い四代将軍家綱
(十一歳)の後見を頼みます。いわゆる「家光 託孤の遺命」です。
この時から正之は将軍輔弼役として幕閣に留まり、23年間も会津に帰ることはなかったといわれます。こ
の間数々の善政を行うのですが、全ては家綱の功とし、決して自身が表へでることはなかった。

明暦の大火(1657)では十万人もの死傷者が出るのですが、この時江戸城天主閣も消失してしまいます。
この危急の時、浅草の米蔵の貯蔵米をを取り放題にする触れを出して庶民を消火の手助けにするなどの奇策
を用います。また、復興の着手については幹線道路の拡張(上野広小路)、両国橋の建設などを主導します
。いまは、江戸の町の復興を優先すべきである、当時、両国橋が無かったために多数の庶民が逃げ場を失い
死傷したのであるから、両国橋は架けるけれど天主閣はただ遠くを見渡すための物見櫓にすぎないので、こ
れは再建しない。実は大火の翌年には加賀藩の受け持ちにより天主閣の土台の石垣が完成していたのだが、
すべては民の安全を第一とした政治が先であるとして、これの再建に反対した。また、玉川上水の開削を決
断するなどの善政を行ない、江戸は世界に例の無い百万都市に発展していったと、語られます。


会津松平家の藩祖は名君で知られた保科正之である。父は2代将軍秀忠、母は‘おしず(お静)’といった
。このお静の父は豊臣秀吉によって滅ぼされた小田原北条氏の家臣だった神尾伊予栄加という人であるが、
主家滅亡の後は仕官も出来ずにいたので、その父はなんとか徳川家に採用されたい思い、お静を家康の世子
秀忠のかっての乳母で、そのころには大乳母殿と呼ばれていた女性に奉公させた。
大乳母殿は江戸城大奥に部屋を与えられていたため、お静も大奥に入って大乳母殿づきの奥女中となったわ
けである。
秀忠は時々大奥へ大乳母殿のご機嫌伺いにやってくる習慣があった。その秀忠がお静を見初めた結果、お静
はお手つきとなり、幸松(後の正之)を産んだのである。
ただ、秀忠の正室お江与の方(崇源院)はとても悋気がはげしく、これが分かれば一家がどんなことになる
かも知れないという恐怖に怯えながらも、親族一同が諮って出産させたのであった。
この出産のことは、すぐにお静の姉婿武村助兵衛によって町奉行の米津勘兵衛に知らされ、勘兵衛はただち
に老中土井利勝に報じた。
報告を聞いた秀忠は、葵の紋付の小袖を手ずから利勝に渡した。この紋付は米津勘兵衛、竹村助兵衛の手を
経てお静のもとへ届けられた。
だが、秀忠はお静、幸松母子を江戸城へは迎えようとしなかった。幸松は秀忠が公式には認知しなかったた
め徳川姓でも松平姓でもない、苗字のない子になってしまった。

幸松は竹村助兵衛の屋敷内で匿われるようにして2歳頃まで育つのであるが、慶長18年(1613)3月1日、
土井利勝と本多正信が田安門内の見性院邸(比丘尼屋敷)を訪れ、「幸松様を御子として養育していただけ
ないか、と内々の上意がござりました」と見性院本人に申し入れた。
この後、7歳までこの見性院邸で養育されるのであるが、この年齢になっても老中から今後について何も音
沙汰がないので、ついに見性院は武田の繋がりで見知っていた懇意の武将、保科正光に養育を依頼するので
ある。
しかるに正光は、「内々上意などをも」承った上でなければ、と条件をつけたので、もっともと思った見性
院が土井利勝を介して秀忠に伝えたところ、「幸松君事保科肥後守在所へ引き取りまいらせ、養子分にいた
し養育せよ」との内意が下った。正光は土井利勝邸に招かれ、井上正就同席の上でその内意を通達されて初
めて正式に受諾したのである。

ところで、見性院とは武田信玄の次女で、武田家家臣で親族であった穴山信君(梅雪)の正室。梅雪は信玄
没後は勝頼に従っていたが、後に勝頼を見限り、天正10年(1582)2月、誘いに応じ家康に従った。3月
11日、勝頼は天目山で自刃し武田家は滅びる。
一方梅雪は、同年5月に家康に従って安土城に赴き信長に謁見、歓待された。その後家康と共に京・堺を視
察していたが、6月初め本能寺の報を聞いたため帰国の途についたが、帰路を家康と違えてとったために、
山城国宇治田原で野党の襲撃を受け死亡した。

かくして、見性院の許で育てられた幸松は、元和3年11月8日(1617)、母志津、万沢権九郎、野崎太左
衛門、神尾左門(志津の甥)、有泉金弥(重治の子、後会津有泉家の祖)それに女中4人と比丘尼屋敷を出
、信州高遠城(現在の伊那市)に移り、保科正光の養子となった。
保科氏は信州の名家で、保科正俊は高遠頼継に従っていたが、後武田信玄に従い、さらに子の正直は織田信
長に従った。正直は本能寺の変で旧武田領内を支配していた信長家臣達が領地を離れ、支配者を失って騒然
としている時に高遠城に入城し占拠、家康に臣従を誓い所領安堵された。正直の子が正光である。幸松を保
科正光の所にやったのは、見性院と保科正光が親しかったためで、見性院は老中土井利勝に相談、秀忠の内
聞を得て決定した。見性院はすでに高齢であり、幸松の将来を考え、身を切られる思いで見送るのである。

さて、高遠とは現在の長野県伊那市に属するのだが、当時どんな道程で江戸と行き来したのだろうかとの興
味を持ち、少し調べてみたところ、甲州街道を利用していました。
甲州街道は日本橋から下諏訪まで、53里24町(約208キロ)となっていて、44次と言われます。宿
駅は45。これを五泊六日程度の行程で行き来したとされています。
高遠へは、甲州街道金沢宿を過ぎて上諏訪に至る途中の茅野から南へ、杖突峠を越え御堂垣外(みどうがい
と)高遠となっていますから或いは更に一泊を要したのでしょうか。
この道を幸松君は駕籠に揺られてお国入りしたのでしょう。
また、約100年後には、島津亜矢さんが「絵島生島より 雪の舞い」で唄われる‘絵島’さんも寂しい気
持ちを抱いてこの道を往かれたのでしょう。


この後、保科正之は二十一歳にして寛永八年(1631)、高遠藩二代目藩主、三万石の城主となる。
慶長十三年(1636)、正之、出羽山形二十万石に移り、寛永二十年(1643)更に転封し陸奥会津二十三万石の
大名となる。

会津若松は伊達、上杉などが入れ替わり領有したが、保科正之が藩主になってからは、藩政改革を行い検地
のやり直し、年貢を低くするなどの修正を行ったため農民側も「隠し田」を申告してくるなどがあったとい
う。また、「社倉制度」(藩が米を備蓄し、凶作や飢饉の時に被災者に貸し出した。貸した米は豊作の時に
利息二割で返済させる)を、実施して飢饉に備えた。
ちなみに、社倉の備蓄高は承応2年(1653)七千俵、寛文3年(1663)二万三千俵、寛文9年(1669)五
万俵、幕末には十万俵あったとされている。こうした事情から度重なる大飢饉でも餓死者を出さなかった。
餓死者が出るのは政治の責任と正之は考えたとされるが、高遠、山形、会津とそれぞれの土地から引き連れ
てきた家臣や家老も有能であったらしい。また、その他種々の善政により会津藩の人口も増え続け1648年頃
11万人であったものが1718年頃には17万人と、70年間に約55%も増えたことになっている。
そして、会津藩は日本一安心な国だったと参考書に書かれている。


「会津藩家訓(かきん)」
1、大君の儀、一心大切に忠勤を存ずべく、列国(列藩)の例を以て自ら処るべからず。若し二心を抱か 
ば、則ち我が子孫にあらず、面々決して従うべからず。
 ※注釈:「徳川将軍家については、一心に忠義を励むべきである。しかも他の諸藩と同じ程度の忠勤で 
満足していてはならない。もし徳川将軍家に逆意を抱くような会津藩主があらわれたならば、そんな 
者は我が子孫ではないから、決して従ってはならない」
1、武備は怠るべからず、士を選ぶを本とすべし。上下の分を乱るべからず。
1、兄を敬い弟を愛すべし。
1、婦人女子の言、一切聞くべからず。(これは自身の苦い経験があったらしい)
1、主を重んじ、法を畏るべし。
1、家中は風儀を励むべし。
1、賄を行ない、媚を求むべからず。
1、面々依怙贔屓すべからず。
1、士を選ぶに、便辟便佞の者(心のねじ曲がった者)を取るべからず。
1、賞罰は、家老の外、これに参加すべからず。若し位を出ずる者あらば、これを厳格にすべし。
1、近侍者をして、人の善悪を告げしむべからず。
1、政事は、利善を以て道理を枉ぐべからず。僉議は、私意を挟み人言を拒(ふさ)ぐべからず。
  思う所を蔵せず、以てこれを争うべし。甚だ相争うと雖も、我意を介すべからず。
1、法を犯す者は、宥すべからず。
1、社倉は民のためにこれを置く、永利のためのものなり。歳餓えれば則ち発出して、これを救うべし。
  これを他用すべからず。
1、若しその志を失ない、遊楽を好み、驕奢を致し、士民をしてその所を失わしめば、則ち何の面目あって
封印(封土を与えるとの黒印状)を戴き、土地を領せんや。必ず上表蟄居すべし。
右十五件の旨堅くこれを相守り、以往(以後)、以て同職の者に申し伝うべきものなり。

家光の「託孤遺命」をひたむきに守り、足かけ二十三年間会津へ帰国しなかった正之の最後の願いは、正経
およびその子孫たちも自分同様幕府に忠節を捧げることを遺命としたのである。

保科正之の直筆の書が残っている。
「亢龍有悔」(コウリュウクイアリ)・・天井に登りつめおごった龍は必ず後悔するという中国の諺。

参考図書:中村彰彦 著 [慈悲の名君 保科正之]

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    亜矢姫の唄は芸術だと固く信じているおじんです。
    コンサートなどに参加したい気持ちはやまやまなれど、不如意のことが多いので、これは条件が整い次第となっています。

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