忠治さんが愛した3人の女性

忠治さんには3人の女性がいました。その名は正妻の鶴、愛妾の町、それに「鷙悍」(しかん)の徳です
。この他にも下仁田の“小出かね”、野沢温泉に住んでいて後に「忠治地蔵」を作った”畔上つま”
という人もいたそうですが、忠治が大戸の関所で処刑されると、すぐに「忠治地蔵」を作って近くの
薬師堂に奉納したのは、この“つま”さんだと言われています。よほど情念が深かったのかもしれま
せん。
忠治地蔵は、現在須坂の寿泉院にあるそうですが、むかし野沢温泉村にあったものを須坂に住んでい
る人が買い取ってきて奉納したとされています。「中風除け」の地蔵様として拝まれているようです。

忠治さんの行動範囲は相当に広くて、山梨県大月市の猿橋上での捕り物騒動は津本陽さんの小説にあ
りますし、他に新潟の弥彦あたりにも足跡があるといいますから旅がらす生活も結構に長かったので
しょう。現実に勘助殺し以降4年ほどは会津方面に隠れ住んでいたと言われています。

3人の女性のうち、
“鶴”は正妻で忠治にひたすら仕えた従順な女性であったと言われますが共に暮らした時期は2年あ
まりと、短かったと言われています。
“町”は忠治と同い年、いったん結婚して村を出たが離縁して帰村しているところを忠治に見染めら
れて愛妾になりました。町は天保8年(1837)田部井村名主小弥太養女から、忠治の弟友蔵の「厄
介」(居候)として人別帳に登録されましたが、これは忠治にたのまれて友蔵が、書類上「厄介」という
身分で入籍させたことになっています。

“徳”は忠治より六歳年下で、3人の中では最も若い。有馬村(現渋川市)の小農の娘に生まれ、21
歳のとき五目牛村(現伊勢崎市赤堀町)の千代松のもとに月雇いの奉公人として入り、24歳で正妻を
追い出し後釜となったとされていますが、実は以前から交情があったらしい。千代松が忠治と昵懇で
あったため、夫の病没後会津方面への逃亡から帰った忠治と出会い、以降愛憎の中となる。

忠治が弘化3年(1846)の冬に故郷の赤城へ戻った時は、片腕の円蔵や武闘派の浅太郎らの股肱の
子分達の姿はすでに無く、回りにいるのは老境に差しかかった幼なじみともいえる子分達ばかりであ
り、一家の凋落を身に染みて感じる状況となっていたのですが、“徳”はこの状況下であえて忠治の
妾となり、以後忠治が磔刑に至るまで陰に日に忠治を助けて、最後は華々しい最後を演じさせるので
すが、この女性こそ「女侠」といわれる“菊池徳”です。

この女性“徳”を、羽倉外記は「鷙悍をもって愛せらる」と評して自身の忠治伝「赤城録」に記してい
るそうですが、他鳥を食い殺して生きる鷹などの猛鳥にたとえて表現しているのだといいます。
徳は自立した強い女性であり、一町6反余を所有する独立した地主経営者で、千代松亡き後の一家を
切り盛りし、蚕繁盛の経済動向を察知、養蚕業を基盤に金融にも手を染めるやり手でした。

お徳は忠治が捕えられたとき一緒に捕えられたのですが、白洲に呼び出されたとき、役人から「お前
は忠治のめかけか」といわれたとき、「忠治がわたしの おかけ だ」と応えたといい、役人はお徳の
気性の激しさにたまげたと伝えられているそうです。
忠治が最後に惚れた女性“菊池徳”とは、いったいどんな女性であったのか、また、忠治はどんな最
後を演じたのか、高橋 敏さんの著書を引きながら、少しづつその顛末を追ってみたいと思います。

忠治さんのことを書いているのは、亜矢姫の「赤城山」が発端です。
今日は、REOREO0141様がアップされている「赤城山」を聴かせてもらいましょう。

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    亜矢姫の唄は芸術だと固く信じているおじんです。
    コンサートなどに参加したい気持ちはやまやまなれど、不如意のことが多いので、これは条件が整い次第となっています。

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