国定忠治の撃剣

忠治は隣村の赤堀市場村(国定村の北、約1キロ程)の本間仙五郎の道場「錬武館」で剣術の稽古を
した。本間仙五郎応吉(まさよし)は真庭念流宗家樋口氏から永代免許を与えられ、世間では本間念
流と呼んでいた。

真庭念流の樋口家は多胡郡真庭村(現:高崎市吉井町真庭)に存するが、忠治が生きた19世紀前半
、上州の村落社会は在村剣術の全盛期であったという。直心影流、小野派一刀流、北辰一刀流、真庭
念流、その他流派が上州一円に拡がり流派を示威する神社奉納掲額が盛んであったという。
この掲額に関して北辰一刀流の千葉周作による伊香保神社(渋川市 伊香保温泉)への奉納掲額に関
して、これを阻止しようとした地元の真庭念流との争いは各派人手を集めて睨み合う大事件となった
というが、この時本間念流も真庭方についたらしい。(最終的には周作方が手を引いた)
この頃、忠治は14歳頃であったが門人であったかどうかの記録はなにも無く、本間念流との関わり
も具体的には分からないという。ただ、高橋敏さんの忠治本では念流を修めただろうという立場に立
っている。

作家の津本陽さんに「国定忠治」という著書があります。
津本さんは剣道三段、抜刀道五段の腕前と言われますので、撃剣についての表現はその知識とも相俟
って真に迫るものがあるのですが、この忠次本から興味のあるところを少し拾い出してみましょう。

忠治は十六歳になると、並みの大人では二人がかりで組みついてもはね飛ばされるような、剛力をあ
らわす。体躯肥満して、二十貫に近い。肥えているといっても、全身岩のように固い筋骨に覆われて
いる。身ごなしがきわめてすばやく、歩行は飛ぶようで、一日に二十里(80キロメートル)歩いて
も平気だと広言していた。
~俺は親父のあとを継いで、生糸の商売などをして年をとりたくねえ。世間をみりゃ、悪賢い奴らが
、飲む、打つ、買うの三道楽をしながら、たんまり金を溜め込んでいやがる。やることといったら、
力のねえ者を絞りあげるばっかりだ。俺はあんな奴らにばかにされていたくねえさ。強え奴をいため
つけるような無法者になってやるべえ。そのためには、まず撃剣やることだ~

先生が稽古のあいまに教えてくれることは身に沁みて忘れない。
「敵を打つときは、敵がこちらを打とうとしかけたときか、敵が息を吐いたときか、敵が引くところ
か、追いこむところか、この四つじゃ。これを先々の先という。
敵を追いこんだときは、敵を切り落とすまでは何本も続け打ちに打て。眼のつけどころは敵の拳じゃ
。拳に目をつければ、敵の動きが遅く見えて凌ぎやすいものよ」
「敵の打ちだす太刀を見切るには、前に出した足をすこし引き、胸をそらせるのがよい。そうすれば
わが体はすこしも引かず、敵の太刀先がわが鼻と胸に当たらぬ間合いを見切ることができる。そうす
ればかならず勝てるものよ」

「強い敵ときりあうときは、払いのけ、外すうちに敵は必ず隙をあらわすものじゃ。動きが鈍くなり
、気によどみのあらわれたところを打てば勝てる」
「斬りあいには調子がある。調子にあわせて刀を振る者は勝つ。調子にあわぬときは斬られる。調子
は稽古を重ねたうえで知るものじゃ。十人十色で、人によって違う調子をすべて知るようになれば、
剣術の達者といわれるほどの腕になる。下手は十度立ちあって一度、調子をあわせるのもおぼつかな
いものじゃ。また、刀で相手の刀を受けとめてはならぬ。どれほどの名刀を用いても受け止めれば必
ず刀身に斬りこまれ、二度と使えぬようになる」

刀は切っ先から三寸下の三寸が、もっとも切れ味のでるように反りがついているので、そこの刃に細
かい疵をつけると、物体を斬るとき、うまく刃がくいこんで日本刀独特のすさまじい切れ味をあらわ
すのである。白磨きの刀であれば、刃がツルツルと滑って切れ味がわるいという。
人を斬れば、刀身に脂肪がついて切れ味がおちるというが、寝刃を十分にあわせておけば(切っ先三
寸下に毛筋ほどの疵をつける)そんな懸念はない。

忠治が十七歳になった文政九年(1826)の初夏であった。毎日、本間道場に通い、古参の弟子をしば
しば打ち負かすほどに腕があがっていた。
~剣術を知らなかったら、村の悪党たちに打ち殺されてしまうところだったなあ~
博徒は無宿者が多い。悪事をはたらくので親族へのかかわりあいがないように、人別を外されてしま
った者である。
彼らは役人の支配力がきわめて微弱な上州の村々を、長脇差を腰に二十人、三十人と徒党を組んで公
然とのしあるき、百姓、町人を脅し、博打に誘う。彼らは町役人、関東取締出役の道案内をつとめる
土着の博徒と通じ、白昼公然と賭場をひらく。

江戸から流れ、中山道から上州へと入り込んできた無宿者も多い。常に乞食同様の暮らしから逃れた
い者は、「通り者」とよばれて集団で横行する博徒の三下になった。
忠治は、そんな中の一人桝音という男を斬って逐電し、近在の大親分大前田栄五郎のところで世話に
なることになる。一年あまり過ぎたころ、栄五郎が忠治に言った。
「お前さんほどの才覚のある男なら、いつまでも生まれ在所を離れていなきゃならねえこともねえだ
ろう。どうだ、かねがね頼まれているんだが、上州の百々村(どうどうむら)の紋二親分のところに
いってやってくれめえか」百々村は国定村とは間近である。忠治は喜んで応じた。

ところで、この紋二さんを笹沢佐保さんが木枯し紋次郎のモデルにしたとの話もある。

国定忠治が百々村の紋二のもとに身を寄せたのは文政10年(1827)十八歳のときであった。本
間道場で撃剣稽古をしているころ兄弟子であった五目牛の千代松(後に、徳の夫)が代貸をつとめて
いたので、居心地がよかった。
天保1年(1830)紋二が亡くなり跡目を継ぎ、国定一家を名乗る。

これよりずっと後の天保13年(1842)田部井村で賭場を開いていたところを関東取締役配下に
踏み込まれて大捕り物となるのだが、忠治は日光円蔵とともに長脇差を揮って血路を開き赤城の山に
逃げ込むみます。
この捕り物が浅次郎(浅太郎)の伯父勘助親分(二足の草鞋)の密告によるものと分かり、賭場にい
なかった浅次郎は勘助とグルだったのではないかと疑われて、勘助殺しでもって身の証しを立てるこ
とになります。

この一連の流れが島津亜矢さんの「忠治侠客旅」に歌われていると思えますが、新国劇作家の行友李
風の戯曲のセリフも入っていて何とも劇的な歌になっています。
亜矢版'忠治もの’と言えば「赤城山」もあって、こちらは如何にも情緒性に富んだ人間忠治が歌わ
れていますが、情味がありとても親近感の持てる忠治像になっています。忠治さんのことを少し穿っ
てみたいと思ったのはこの歌が発端でした。それは、何にも増して亜矢姫の感情を絞り出すようなセ
リフ回しと情感豊かな歌い回しにゾッコンでしたから。イヤ~、参った、参った。


コメントの投稿

非公開コメント

こねこ時計 ver.3
CATS
Sweets
カレンダー
05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
フリーエリア
    follow me on Twitter
    カテゴリ
    最新記事
    プロフィール

    ふうてんの猫

    Author:ふうてんの猫
    亜矢姫の唄は芸術だと固く信じているおじんです。
    コンサートなどに参加したい気持ちはやまやまなれど、不如意のことが多いので、これは条件が整い次第となっています。

    リンク
    検索フォーム
    RSSリンクの表示
    ブロとも申請フォーム

    この人とブロともになる

    QRコード
    QR