愛のかたち~岡本太郎さんと敏子さんの場合(3)

太郎と敏子~瀬戸内寂聴が語る究極の愛~

寂聴・・本当にとし子さん、'先生、そこ紫'、そうすると、ばぁ~と紫を描くの、可笑しかったですよ。
だから私はね、本は敏子さんと二人の共著だと思ってたのね。絵は太郎さんが一人で描いていると思ってた
の、それまで。
ああ絵まで一緒かと思ってね、その時愕然としたの、敏子さんがこう描いて欲しいというふうな、あれが、
あるんじゃないかしら、それが割といいんじゃないですか、敏子さんの感性が。
太郎さんもそれが自分の感性よりもずっと劣っていたら相手にしないと思いますよ。敏子さんを信用してい
たんじゃないかな、彼女の芸術性をもね。

ナレーター(日記)~「あんまり口を出すと、‘うるさい、描くのは俺なんだろ、だまってろ’彼はどなり
つける。」だが、私も真剣に怒っている。彼の絵だからって、彼が正しいとは限らない。

寂聴・・あのぉ、敏子さんに言わせたら、おそらく太郎さんと一緒に苦労している絵をずっとみてね、だん
だんだんだん太郎さんと一体化してきてね、絵までも自分が描けるような気が、錯覚を起こしたんだと思い
ます。

ナレーター(日記)~彼は疲れる。くたくたになって、かわいそうになっちゃう。しかし、今度の個展まで
で使いつぶしちゃったとしても、私はけしかけ、尻を叩く。私はその覚悟だ。彼は私の捧げたいけにえ。

寂聴・・この子をみて頂戴、これは私が作ったのよ。そういう、感じじゃないかしら。どうしても、岡本太
郎をもっともっと世に知って欲しい、もっと作品を残したいって、その一心ね。
だから太郎さんが有名になればなるほどね、重んじられれば重んじられる程、それは敏子自身の才能が重ん
じられていることになるんですよ、だから、世間は知らないけど岡本太郎は私よ、と、いう感じがあったと
思う。あれはね、やっぱり愛してたんですよね。そして岡本太郎が自分だったんですね。

ナレーター~その翌年二人の間にある結論が出されていた。これが敏子さんがつけておられた業務日誌です
。昭和37年の日誌。12月、養子縁組の届を出したとの記述があった。そのことを示す戸籍謄本が残され
ていた。昭和37年12月17日、かって恋人同士であった二人は親子になった。何故二人は養子縁組を結
んだのだろうか、敏子の弟、平野繁臣を訪ねる。長く二人の創作活動を手伝ってきた。養子縁組の事情を聞
いた。

平野繁臣さんは語る・・太郎さんは自分の残した作品を売らない人でしたから、自分の作品を後までちゃん
と管理してくれるためには、立場が妻では駄目なんですね、相続上は妻だったら二分の一しか相続権はない
んですよ、後の二分の一は子供のものなんですね、子供がいない場合兄弟とかにいっちゃう訳ですよ、それ
だと散逸しちゃうでしょ、だから自分の作品を散逸しないで絶対に守り通して一つのところに固めておくた
めには、養女ってのが一番理想的な手段であると思ったんでしょうね。自分の作品をすべて敏子に受け継が
せる。太郎の敏子に対する絶対的な信頼の証しでもあった。

寂聴・・何故、太郎さんは敏子さんを妻にせず養女にしたのか私もついに聞かずじまいでした。養女という
選択は創作のパートナーとして支えつづけてくれた敏子さんへの、太郎さんなりの愛と感謝の表れではない
でしょうか。そして敏子さんは太郎さんの気持ちを素直にうけたのではないでしょうか。私にはそう思われ
ます。

ナレーター~昭和45年に開かれた大阪万博、そこにそびえたのが岡本太郎の代表作、太陽の塔、高さ70
メートル今も万博の顔として親しまれている。この時期、太郎が取り組んでいたもう一つのプロジェクトが
あった。メキシコのホテルのロビーに飾る巨大壁画の製作である。縦5.5メートル横30メートルにも及
ぶ作品、「明日の神話」(昭和44年)。選んだテーマは原爆、悲劇を乗り越えて輝く人間の生命力を表現
しようとしていた。
大作を次々と手掛け絶頂期を迎えていた太郎、その創作は独自の信念に支えられていた。

昭和59年放送「NHK教養セミナー」での太郎の映像が語る。
・・・芸術はきれいであってはいけない、うまくあってはいけない、心地よくあってはいけない、ってのが
芸術の三原則にしちゃっている。

ナレーター~しかし、強い信念は軋轢を生んだ。万博の現場でも摩擦が起きていた。会場の中心となるシン
ボルゾーンは地上30メートルの巨大な空中建築で覆われる予定だった。この近未来的な建物を設計したの
は日本を代表する建築家丹下健三だった。
大屋根を壊す気か、太郎は最後まで主張を貫いた。大屋根を突き破る大胆な傑作「太陽の塔」は、摩擦や批
判に苦しみながら生み出されたものだった。

ナレーター~激しい軋轢のさなかにあった太郎を敏子はどのように支えていたのだろうか。
太郎の元で太陽の塔の設計を手伝った千葉一彦(大阪万博テーマ展示サブ・プロデュユーサー)に聞いた。
千葉一彦さんは語る・・真ん中の顔にしても十種類ぐらいあったのかな、微妙に違う、表情がね、なんか僕
らから見るとすればどれも区別がつかないような顔だったんだけど、敏子さんしてみれば、‘これが素敵’
というのがある訳ですよ。‘これでいいんじゃない’って決まったのがこれですよ。
太郎先生にとっては敏子さんは母でしょうね、きっと、常にこう、側にいたい、甘えたい、敏子さんの胎内
にいることが一番安心して穏やかで、こういうことなんじゃないんでしょうかね。

ナレーター~今回発見された敏子の日記にも、太郎が敏子に頼り切る姿が記されている。
「おれは辛いことがいっぱいあるのに、世の中に対してはそういう話はしていない」彼は「母性愛をもって
おれを包んでくれよ、おれは悲鳴をあげてるんだから」という。
一方、敏子の言葉も母性愛にあふれている。・・・今日ロンドン空港で一日に投かんした手紙が届く。やっ
ぱり飛行機に弱くて、いささか参っているらしい。あの過敏な子が、せっせと歩きまわっているところを想
像すると、切ない。

寂聴・・太郎さんは、敏子さんが思ったより有能だからね、だから、頼り切るようになったでしょ、変化し
ていく愛をどういうふうにしてコントロールするかっていうので保つわけでしょ、だからいつのまにか友愛
になっていたりね、或いは肉親的な愛になってたりね、そういう風に変わるんですよね。

ナレーター~還暦を迎えようとする太郎、40代に差しかかった敏子、太郎をけしかけ、必死で共に芸術を
作り上げてきた敏子は、今、太郎を包み込む母として創作をささえるようになった。
晩年の太郎はテレビタレントとしても活躍し人気を博すようになったが、その陰に病魔が忍び寄っていた。
パーキンソン病、手足が思うように動かせなくなる病気である。敏子にとって辛い日々が始まった。

ナレーター~昭和61年、太郎が75才、敏子が60才、この時寂聴さんは長野の寺に招かれ講演を頼まれ
たのだ。二人と顔を合わせる機会となった。太郎さんも講演をしたのだが、話の焦点が定まらなかったと参
会の方が語る。太郎の様子をまじかでみていた敏子、母役に徹していたとは言え、その心痛は計り知れない
ものがあった。
太郎が寝たあと女三人(敏子、寂聴、住職の妻)で話していたときだった。苦境に立たされ気持ちが弱って
いた敏子さんは、自身が死んだら太郎さんの面倒を見て欲しいと、寂聴さんにせがむのだが、即座に断られ
る。この時を境に自分が最後まで岡本太郎を支えきる決心ををしたのだろう。
                                         ・・・つづく

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    亜矢姫の唄は芸術だと固く信じているおじんです。
    コンサートなどに参加したい気持ちはやまやまなれど、不如意のことが多いので、これは条件が整い次第となっています。

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