愛のかたち~岡本太郎さんと敏子さんの場合(4・終章)

太郎と敏子~瀬戸内寂聴が語る究極の愛~

ナレーター~病気の太郎を敏子が支えていた頃の作品が見つかっている。川崎市から依頼された壁画の下絵
、此処には絶頂期の勢いは見られない。平成5年壁画は披露された。完成作には鮮やかな色彩がほどこされ
ていた。手足が思うように動かない太郎の意図を汲んで敏子が指揮を執り作品に仕上げていた。
「水火清風」(平成5年)。
敏子は芸術家としての太郎の衰えを最後まで世間には見せなかった。

ナレーター~翌年の日記、太郎の病状はいよいよ悪化した。
ナレーター(日記)~「俺が岡本太郎でなくなったら、自殺するよ」何のきっかけだったか、彼がそう言っ
たことがある。「だけどその時はもう気力がなくなって、自殺する気も起らないかもしれないな」と困って
いる。「だったら、その時は私が殺してあげますよ」実感がなかったから、笑ってそう言ったが、もう何年
も、彼は岡本太郎でなくなっていた。もどかしく、悲しい。三時ごろから、ほぼ一時間おきにおしっこに起
こす。うっかり寝入るとベッドから落ちてもがいている。
昼も、一ときも眼を離せず、ついて歩き、立たせ、座らせ、食べものを口に運び、しょっちゅう話しかける
のだが、会話というものは成立しない。でも岡本太郎さんには違いないのだ。どこまで解っているのか、何
か考えてることがあるのだろうか。あの人を守りぬいてみせる。たとえ彼には、何もわからなくとも。

寂聴・・長かった太郎さんの闘病時代、忙しさを口実に二人の家への私の足は遠のいていました。私はもう
太郎さんじゃない太郎さんには会いたくなかった。お見舞いにも行かなかったし、もう逃げてましたね。
ほんとに自分の嫌いじゃない人が、もう、みじめになってるの見たくないじゃないですか。よぼよぼになっ
てるのも見たくないじゃないですか。

ナレーター(日記)~夕方彼をマンションから二階の食卓につれて来て、エプロンをかけさせようとして、
思わず抱きしめてこう言った。
「先生、先生と一緒に闘いたいわねえ。闘ってるのよ。一生懸命。わかる?私の出来る限り、闘ってるのよ。
見ててね。見てて、助けてね。」表情は動かなかったようだけれど。あの人の生命の根源をゆり動かしたい。
岡本太郎にもどしたい。時々でもあの魂が発振する時があったら、会話が出来たら、話しかけてみよう。
独り言でも。
・・太郎と敏子、二人の闘いは10年に及んだ。平成8年1月7日、岡本太郎死去。敏子に支えられ敏子に
みとられて終えた84年の生涯だった。

ナレーター~二日後、親しい友人を集めて、お別れの会が開かれた。一人になった敏子、皆の前では気丈だ
った。
寂聴・・何にも悲しくないって、いうのね、太郎先生は死んでなんかいないわよ、生きてますよ、この部屋
に充満してますよ、この世界に充満してますよ、なんてね、そういう風なの。もう興奮してしまっている、
もう、とにかく死んでないんだってね、太郎先生はいきてるんだってね、そそういうことを口走って。

ナレーター~太郎の死から7年後(平成15年9月)敏子の姿はメキシコにあった。
太郎が万博のころに描いた壁画‘明日の神話(昭和44年)’飾られる筈のホテルが倒産し、その後行方不
明になっていた。ひびが入り絵具の剥げ落ちた姿ではあったが、実に35年ぶりに探しあてた。
(屋根だけの倉庫に透明のビニールシートで覆われた、この絵を発見した時の敏子さんの驚き喜ぶ様子が映
像から感動的に伝わってきましたが、ここのところは文章ではちょった表現がむずかしい)

・・敏子は太郎の死後、その仕事を世に知らしめる活動を精力的に行った。
・・平成11年 川崎市岡本太郎美術館開館、太郎の作品およそ1800点を収め、その魅力を広く人々に
伝えている。
そしてメキシコの壁画‘明日の神話’をいよいよ日本に持ち帰ることになった。

敏子さんへのテレビインタビュー・・・「いまこそ、見せるときだぞっ、とか、太郎の意思を感じるのよ、
いま、ひょっこり現れたんですもの、ずうっと捜してたのよ、見せたいわ、見てもらいたいわ、もうすぐよ
、持って帰ってきますから」
(この画はいま、渋谷駅の連絡通路で公開されています)
・・このインタビューの6日後、全ての仕事をやりとげたかのように敏子は突然亡くなった。(平成17年
4月死去、79才だった)

寂聴さんは語る・・・
敏子さん貴女が亡くなってもう6年になります。貴方が残してくれた日記や手紙を読み終えたいま、改めて
太郎さんと貴女の愛の真実をかみしめています。
岡本敏子という女性があって、岡本太郎に惚れきってて、それで、死んだ後までね、その作品を捜しだして
きてね、一生懸命彼の芸術を世に広めようとしたって、ただそれだけをね皆さん知ってあげて下さいって、
言いたいわね、。こういう生き方もあるんですよ、ってことね。ここまで愛し通した人というのは少ないん
じゃないかしら。

太郎の死後も敏子の日記は続いていた。
ナレーター~「岡本太郎さんとの恋愛が、またはじまったのよ。恋愛の小説も書いてるし、彼の魅力を知ら
しめる、真面目な原稿も、テレビも、次々とこなしているし。あなたがどんなに素晴らしい、チャーミング
な、そして凄い人だったか、これから私のいのちをかけて、世に知らしめてあげる」
「太郎さんが亡くなったら殉死するのよって私はずっと言っていた」
「亡くなってから、彼の指令で、次から次へと、やらなければならないことが押し寄せてきて、殉死どころ
じゃなかったけれど」「もういいでしょう、十分やったのよ、という時が来たら、私はぽっくりといきたい
。もう遠くないような気がする」


 島津亜矢さんが「袴をはいた渡り鳥」「武田春秋」を引っ提げてデビューしたのは1986年(昭和61)
5月のことでした。
いま手許に、風工房発行の小冊子「むぞらしかVol.5」があります。この中の‘亜矢ちゃん史’にデビュー
のころの記事があるのですが、少し引用します。・・・芸名をきめる時、星野先生が「亜矢子は熊本生まれ
だから、『球磨川亜矢』が良いな・・球磨川は熊本県人吉市にある、三急流の一つ。・・大きく、激しく、
そして娘のように清らかにとのイメージだったみたいです。
テイチクの皆さんが話し合い、結果「島津亜矢」で決定!!

衣装は袴という事になり、画家の岡本太郎さんが、袴に斬新に描いて下さり・・・と、
あります。
(この時、依頼交渉の窓口に立たれたのは、奥様の敏子さんだったかもしれませんねぇ。)
このことからも、周囲の方達がいかに亜矢さんに期待をかけておられたか、解ろうというものです。
当時の袴は、いまは亜矢さんの身丈には合わないでしょうから、お手元に宝物として大切に保管されている
ことでしょう。
それと、このVol.5に、スカウトして頂いた方でテイチクの牧野部長というお名前が見えますが、いまはど
こから亜矢さんを見守っておられるでしょうか、さぞかし、感慨深いものがお有りではないかと察せられま
す。歌手、島津亜矢の生みの親とも言える方なのでしょうから。

いま、このデビュー当時の袴姿はテイチクの亜矢姫専用サイトにも、公式サイトにも有りません。Googleの
画像検索をしてみますと、その雄姿を見ることが出来ます。

亜矢姫の杜 公式ホームページもアクセス数が104万回を超える人気サイトになっていますが、コンテンツの
なかには昔のまま更新されていないものもあり、全面的な改善が望まれます。
そしてリニューアルの時には岡本太郎画伯の手になる袴姿の雄姿も是非掲載して欲しいと思うのです

86-simazu-aya[1]
        

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    亜矢姫の唄は芸術だと固く信じているおじんです。
    コンサートなどに参加したい気持ちはやまやまなれど、不如意のことが多いので、これは条件が整い次第となっています。

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